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ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

ヨハネの黙示録第12章の解説

12章1~2節
「また、天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠を被っていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた。」
これは長く異民族支配という苦難にあった、12部族から成るユダヤ人待望の救世主、イエス・キリストの誕生を指しています。
頭に太陽を(冠として)被っていたら、ただの太陽神信仰の邪教を意味しますが、「身にまとい」ですから、あくまで太陽が「12の星の冠-ユダヤ12氏族」に対して従属的な立場であることを表します。
さらに「月を足の下」ですから、中東をはじめ世界に広く拡がっていた「月の女神・イシュタル(セミラミス)やその子・タンムズ」への信仰=邪教を足の下に踏みつけることを意味しています。

バビロニアの月の女神セミラミスこと「イシュタル」


目に赤いルビーを埋め込まれ、角が2本あるイシュタル神(ルーブル美術館所蔵)

何故、鳩に養育されたセミラミスが月の女神なのかというと、彼女自身が、「自分は春分の後の最初の満月の日に月から 大きな月の卵で地球に降りてきた」と語ったからです。
やがてセミラミスはイシュタルと混同されて広く知られるようになり、イシュタルはイースターと発音されました。そして月の卵はイースター・エッグとなり、現在の(偽)キリスト教に復活祭=イースターとして受け継がれています。


色とりどりに彩飾された鶏卵


チョコレートで作られたイースターエッグ

更にいえば現在、世界195ヶ国の内40カ国がイスラム国家で、その40ヶ国の内約半分の18カ国が、国旗に月か星を採用しています。三日月と星はイスラム教の象徴で、三日月は発展を、星は知識を意味しています。
太陽は月を照らし、太陽に照らされることで月は夜、煌々(こうこう)と輝くことが出来ますから、ユダヤ民族が主で、アラブ民族が従であることを表しています。
つまり、イエスの栄光が天に燦然と輝けば輝くほど、預言者ムハマンドの名声も高まるということです。

「言え、
『私達は神(アッラー)を信じ、私達に下されたものを信じ、またイブラーヒーム、イスマーイール、イスハーク、ヤアコーブおよび諸支族に下されたものを信じ、またムーサー(モーセ)とイーサー(イエス・キリスト)と(その他の)預言者たちに主から授かったものを信じます。
私達は彼ら(預言者たち)の間に、どんな差別もしません。私達はただ彼に服従、帰依(きえ)します。』」(「 コーラン(アル=クーラン)」第2(雌牛)章136節)

「また天使たちがこう言った時を思え。『マルヤム(マリア)よ、本当に神は直接ご自身のお言葉で、あなたに吉報(きっぽう)を伝えられる。
マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー(メシア・イエス)、彼は現世でも来世でも高い名誉を得、また(神の)側近の一人であろう。』」(『アル=クーラン』 第3章(イムラーン章)15節)

3節
「また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。」
「七つの頭」とは、ローマの7丘を指します。
「10本の角」とは、西ヨーロッパの各部族、ANGLOSAXONSアングロサクソン、SUEVIスェヴィ、VISIGOTHSビジゴス(西ゴート)、FRANKSフランク、ALAMANNIアレマニ、BURGUNDISバーガンディアン、LOMBARDSロンバルド、OSTROGOTHSオストロゴス(東ゴート)、VANDAISヴァンダル、HERULIヘルリを指します。



「その頭に七つの冠をかぶっていた。」とは、旧約聖書『ダニエル書』に、「その後、私が夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、物凄い、非常に強いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた。
一つの小さい角が出てきたが、この小さい角のために、先の角のうち三つがその根から抜け落ちた。
見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。」(ダニエル7:7~8)とあるように、ロンバルドがイタリアに移動したことによってオストロゴス、ヴァンダル、ヘルリが滅亡したことを指します。
そのロンバルドから現在のヴァチカン=「一つの小さい角」が誕生しますね。

「大きな事を語る口があった。(ダニエル7・8)」とは、先に当ブログの「ヨハネの黙示録第13章の解説 2」でも解説しましたが、「そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。」(13:6)に対応します。
例えば「我こそは『キリストの代理者』、『教会と世界の最高責任者』『天上、地上、地獄の一切の者は教皇の臣下である』」(イノケンティウス3世、1198)などと言った発言を指します。

4節
「竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。」
の「天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。」とは、同じ7節で「・・・龍もその使たち・・・」とあるように、悪魔に付き従う天使たちが天の3分の一に達し、その使いたちと共に「竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおう」=殺そうとしたことを指します。

以下マタイによる福音書から引用です。

「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東から来た博士たちがエルサレムに着いて言った、『ユダヤ人の王としてお生れになった方は、どこにおられますか。私たちは東の方でその星を見たので、その方を拝みに来ました』。(中略)そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、星の現れた時について詳しく聞き、彼らをベツレヘムにつかわして言った、『行って、その幼な子のことを詳しく調べ、 見つかったら私に知らせてくれ。私も拝みに行くから』。
彼らは王の言うことを聞いて出かけると、見よ、彼らが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼な子のいる所まで行き、その上にとどまった。彼らはその星を見て、非常な喜びにあふれた。
そして、家にはいって、母マリアのそばにいる幼な子に会い、ひれ伏して拝み、また、宝の箱を開けて、黄金・乳香・没薬(もつやく)などの贈り物をささげた。そして、夢でヘロデのところに帰るなとの御告げを受けたので、他の道を通って自分の国へ帰って行った。
彼らが帰って行ったのち、見よ、主の使が夢でヨセフに現れて言った、『立って、幼な子とその母を連れて、エジプトに逃げなさい。 そして、あなたに知らせるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが幼な子を捜し出して、殺そうとしている』。
そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行き、ヘロデが死ぬまでそこにとどまっていた。それは、主が預言者によって『エジプトからわが子を呼び出した』と言われたことが、成就するためである。
さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基づいて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。こうして、預言者エレミヤによって言われたことが、成就したのである。」(マタイ2:1~17)

5節
「女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。」
女は聖母マリア、または古代ユダヤ教、ユダヤ教キリスト派、原始キリスト教を指します。子は杭刑から三日後に生き返り、しばらく12使徒たちはじめ弟子たちの目の前に現れ(マタイ28:9~10、17~20他)、そののち天に上がったイエスを指します。

6節
「女は荒野へ逃げて行った。そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。」
これは西暦800年,この世の支配権を握ったローマカトリックから、幾多の砂漠や険しい山脈に守られた中央アジア地方で東方キリスト教=ユダヤ教キリスト派が2060年まで守られる事を指します。
ちなみに、「一年、二年、また、半年の間、養われることになっていた。 」 とは合計で三年半、360日×3,5で1260年間を指 ます。 フランク国王カール大帝が神聖ローマ皇帝として、教皇レオ3世から戴冠され、 「西ローマ帝国」の復活を宣言した西暦 800年の12月25日(クリスマス)からの 1260年間です。
なぜ360日で計算するかというと、グレゴリオ暦では1年は365日ですが、純粋太陰暦は354日なので、間をとるわけですね。

また、12章6節の 「そこには、彼女が千二百六十日のあいだ養われるように、神の用意された場所があった。」、及び同じ14節 「そしてそこで蛇からのがれて、一 年、二年、また、半年の間、養われることになっていた。」、13章5節の「この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。」にも対応しています。

さて、アフガニスタンの主要な部族であるパシュトン人もユダヤの失われた10氏族であると言われています。
そのアフガニスタンをかってはイギリス軍、続いてロシア軍、今はアメリカ軍が攻撃していますが、これらからも彼らの信じるキリスト教が偽キリスト教であり、彼らが悪魔こと竜を信仰していることがわかります。
つまりアフガニスタンなどに軍を派兵する事は全知全能の神様への反逆です。
フィリピンとの戦争での海兵隊の蛮行、原爆投下や焼夷弾による無差別爆撃もありましたが、とうとうアメリカも骨の髄から悪魔の国に成り下がったという証拠です。
が、トランプ大統領によって、また神の側に戻ったようですが。

また、9,11テロは自作自演であり,バチカンが裏で糸を引いているという事がこの聖句からもわかります。
アフガニスタンは、かつてはイギリス軍,ソ連軍を撃退し、今またアメリカを中心とする多国籍軍を撃退しそうですね。
そして精神世界の巨人ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフも中央アジアで修行しました。

7~10節
「さて、天では戦いが起った。ミカエルとその御使たちとが、龍と戦ったのである。龍もその使たちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らのおる所がなくなった。この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、全世界を惑わす年を経たへびは、地に投げ落され、その使たちも、もろともに投げ落された。その時、私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた、『今や、我らの神の救と力と国と、神のキリストの権威とは、現れた。我らの兄弟らを訴える者、夜昼、我らの神のみまえで彼らを訴える者は、投げ落された』。」
読んだまんまですね。

11節
「『兄弟たちは、小羊の血と彼らのあかしの言葉とによって、彼に打ち勝ち、死に至るまでもその命を惜しまなかった。』」
読んだまんまですね。
厳しい迫害にも耐え、イエスの福音をどんどん信じるものが増えていったことを指します。

12節
「『それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである』。」
天上では祝宴が開かれたようですが,地上の人類にとっては大災害がやってきます。

それは,ユダヤ人狩りや東方キリスト教会破壊であり、異端審問であり、魔女狩りであり、ルネッサンス時代まで抑圧された人間性であり、後の聖句で預言されている植民地支配であります。
また、二度の世界大戦や原発事故、共産主義による大殺戮や飢饉、貧困を差します。

当ブログの「ヨハネの黙示録第13章の解説 まとめ」、「ヨハネの黙示録第17章の解説 まとめ」、「ヨハネの黙示録第8章の解説 まとめ」、「ヨハネの黙示録第6章の解説」他やワクチン、TPP、フッ素カテゴリーで検索してください。

13~14節
「龍は、自分が地上に投げ落されたと知ると、男子を産んだ女を追いかけた。しかし、女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きな鷲の二つの翼を与えられた。そしてそこで蛇から逃れて、一年、二年、また、半年の間、養われることになっていた。」
これは最初の第6節の聖句の繰り返しです。
また,男子を産んだ女とは,ヨハネから見た過去,現在,未来においてはそれぞれ、アジアに散った失われた10氏族,原始キリスト教,原始イスラム教を指します。
“大きなわしの二つの翼”とは,シルクロードの南北二つのルート,あるいはそのルートを進むユダヤ商人とイスラム商人の隊列を指します。または、陸のシルクロードと海のシルクロードを差します。


15節
「蛇は女の後に水を川のように、口から吐き出して、女をおし流そうとした。」
この「水を川のように、口から吐き出して」とは,例えば「聖地奪回を!」「(偽)キリスト教の布教を!」などと,汚し言をもって招集した軍勢の事を指します。あるいは兵士たちの運ぶ飲料水をそのままイメージすれば良いでしょう。

16節
「しかし、地は女を助けた。すなわち、地はその口を開いて、龍が口から吐き出した川を飲みほした。」
これは又、最初の第6節の繰り返しです。中央アジアの厳しい自然が軍勢を疲弊させ消滅させる事を指します。

17~18節
「龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いを挑むために、出て行った。そして、海の砂の上に立った。」
体の健康な人なら二本の足で立ちますが,香港とマカオを拠点として、または教皇の認可のもと、①スペイン,ポルトガルの二国、②後にイギリスとフランス、③最後にギリシャ正教のソ連と偽プロテスタントのアメリカが,アジアに植民地支配に乗り出した事を指します。



こちらもどうぞ。
『欧米の植民地支配』

『昭和史の真実 PART III 欧米植民地支配の世界史的展開と大東亜戦争』

このように黙示録第12章の預言の通り、竜がアジア(、アフリカ、南北アメリカ)で「神の掟を守り、イエスの証を守りとおしている者たち」を皆殺しにしようと上陸しました。
そして、中国では太平天国の乱や義和団事件で多くの聖徒たちが無くなります。
その結果、無法者が中国を支配するようになり、原始キリスト教伝道以前の『殺戮の中国史』が再び繰り返されます。黙示録第6章の赤い馬の登場です。

これにより中国の主の民はほぼ全滅したと考えられます。

以下は
日中戦争の真実
からの引用です。

中国民衆を虫けらのように殺した中国軍
中国軍と、日本軍の間には、大きな質的差異がありました。それは、中国軍は同胞である中国民衆を行く先々で強奪し、また大量殺害したのに対し、日本軍は行く先々で彼らを救済しようとしたことです。
中国では伝統的に、民衆とは、戦乱で虫けらのように殺される存在であり、少なくとも権力者から愛護を受ける対象とはなっていませんでした。梁啓超は、中国の民衆を「戮民」(りくみん 殺戮される民)と呼んでいます。
たとえば、「国共合作」により共産軍と組んで日本との戦いを始めた蒋介石の軍隊は、1938年、日本軍の進撃の道をはばもうと、黄河の堤防を爆破しました。このとき、大雨が降ったこともあって11の都市と、4000の村が水没し、水死者100万人、その他の被害者600万人という大惨事となりました。 しかも、それだけでは終わりませんでした。この人為的水害の結果、黄河の水路が変わり、周辺に大飢饉が広がったのです。そして、被災地で食糧不足に悩んだ中国軍部隊は、民衆から食糧の強奪を始めたため、飢饉はさらに深刻化しました。
その惨状をみた当時のアメリカ人記者は、「道ばたには凍死者と餓死者があふれ、飢えた人々は屍肉を食べていた」と報じています。中国側はまた、事件直後から、堤防決壊を日本軍のしわざとして宣伝もしていました。しかし中国側のこの自作自演は、のちに外国人記者に見破られています。
この堤防決壊のとき、日本軍兵士は一人も死にませんでした。それはただ、中国人を大量殺戮しただけで終わったのです。
堤防決壊の直後、日本軍は堤防の修復作業を行なっただけでなく、被災した民衆の救助と、防疫作業を行ないました。日本軍は、中国軍から虫けらのように扱われた中国民衆を、必死になって救済したのです。
こうした中国軍の性格は、蒋介石の軍だけでなく、毛沢東の共産軍でも同様でした。いや、共産軍はもっとひどいものでした。共産軍は、民衆から「共匪」(きょうひ)すなわち共産主義の匪賊と呼ばれていました。それは彼らが行く先々で、民衆に略奪、殺人、強姦を働いたからです。
中国の軍隊は、共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というより、ルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは、占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。 ですから中国の司令官は、ある土地を占領すると、最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。また、そうしないと司令官が殺されてしまったからです。
日中戦争における戦闘は、たいていの場合、日本軍が攻めると中国軍が撤退し敗走する、という形で進みました。ですから、激戦地を除けば、中国側が宣伝するほど日本軍に殺された中国兵の死者は多くはありませんでした。むしろ中国兵の死者の多くは、中国人が中国人を殺したものでした。
中国の軍隊というのは、兵士たちの後ろに「督戦隊」(とくせんたい)がいたのです。督戦隊とは、後ろで「敵を殺せ、殺せ」と叫びながら兵士たちを戦わせ、逃げる兵士がいると、その兵士を撃ち殺す中国兵です。つまり中国兵が中国兵を殺したのです。
中国史家・黄文雄氏によれば、日中戦争時の死傷者は、日本軍によって殺された中国兵よりも、そうやって督戦隊に殺された中国兵たちのほうが多かったくらいだといいます。また、中国兵は負傷すると、置き去りにされました。
ある戦場で、中国兵の一団が塹壕(ざんごう)の中で戦死していました。それを発見した日本兵たちは、思わず涙を流したといいます。なぜなら彼らの足には、逃亡防止のための鉄の鎖がつけられていたからです。 日本軍と中国軍とでは、質の上でそれほどの差があったのです。

□本当の人民解放軍は日本軍だった
また中国軍と日本軍の性格を大ざっぱにみるなら、次のように言うことができます。中国軍が通った地は至る所、はげたかの大軍が通ったように略奪されました。
さらに彼らは占領地域を去るとき、日本軍に何も残さないようにするため、「焦土(しょうど)作戦」を取りました。つまり退却のたびに、道路や工場、橋、潅漑施設、その他の施設を次々に破壊したのです。そのため中国軍が通るところすべてが荒廃していきました。彼らの行動の特徴は、略奪と破壊だったのです(タコ注:このあいだの反日暴動でもそうでしたね。愛国を叫ぶ略奪隊です)。

それによって中国経済は破壊され、農業も工業も壊滅的被害を受け、人民は苦しむばかりとなっていました。とくに悲惨だったのは、民衆の大半を占める農民たちでした。

一方、そのあとにやって来た日本軍は、当初から農民たちの救済と、中国経済の再建に取り組んだのです。日本軍が占領した地域は、中国本土の人口の約40%、また耕地面積の54%に及びましたが、日本はすぐにその地域での農業再建、道路や潅漑施設の復興、工場の再建などに取り組みました。
日本は中国の住民の救済、治安維持、戦災復興などに取り組んだので、それまで軍隊とは匪賊にすぎないと思っていた中国民衆は驚き、日本軍を熱烈に歓迎しました。統率がとれ、略奪や悪事を働かず、民衆を救う軍隊というものを、彼らは生まれて初めて見たからです。
本当の「人民解放軍」は中国軍ではなく、日本軍だったのです。

日本が占領地域でとくに力を入れたのは、農民の救済でした。日本政府はすでに1938年に中国での農業復興の計画 を発表し、実行に移しています。それは日本・満州・支那(中国)の三国が相携えて、互助関係を築くことを目的としたものでした。それにより、日本の占領地域での農業は飛躍的に増大しました。日本人技術者が中国農民に、日本の農業技術を提供していったからです。

もちろん戦時下のため、悪戦苦闘はありましたが、それでも日本の努力は多くのところで実を結んでいました。
農業だけでなく、軽工業、重工業などの再建にも取り組みました。日本はまた中国に鉄道を敷き、病院を建てました。疫病の多かった中国の衛生事情の改善にも努めました。さらに、絶望視されていた中国の製糸業を復興させたのも、日本の対中国投資によるものです。日本は、満州や、朝鮮、台湾などで行なっていた近代化建設事業を、中国でも、すでに日中戦争のさなかから始めていたのです。それによって占領地域のインフラ整備、産業の復興が行なわれました。

日本政府の推計によると、
1938年から終戦の45年までの
日本の対中国投資の累計は、
約47億円
にも達していました。
当時の日本の国家予算は約20億円ですから、どれだけ巨額かわかるでしょう。


これは戦争に使ったお金ではありません。
中国の国土と経済の復興に使ったお金なのです。

このように、
中国軍が各地を焦土化し、
同胞を虫けらのように殺していたときに、
日本は中国民衆の救済と、
中国の近代化のために働き続けていました。
中国人民の本当の敵は、
日本軍ではなく、
中国軍だったのです。

中国軍は、蒋介石の国民党軍も、毛沢東の共産軍も、その頭の中にあったのは中国人民のことではなく、権力奪取のみでした。しかし日本は、なんとか中国を救おうと奔走していたのです。ですから、中国の老人でこの時代のことを体験した人々の中には、親日的な人々が大勢います。ふだんは中国政府の叫ぶ反日イデオロギーの中で大きな声では発言できませんが、彼らは当時の日本人が中国人にしてくれたことを知っているのです。
(以下略)

以下は
「オバマ大統領は黒人か 変見自在」
からの引用です。

◇毛沢東の系譜
湖南省の長沙から少し南に下ったところに毛沢東の生家がある。家の構えは大きく、前庭には池が二つもある。この「二つ池」というのが風水では大いに意味があって、彼が天下を取れたのもそのおかげだとされる。
それがホントなら、この国の民にはまさに災いの池ということになる。
生家には13の部屋があり、その筋によれば一つの村ぐらい仕切った富農の館の造りだとか。その大きさなら小作人や奴婢の懲罰牢も当然あったはずだという。
そのころの毛沢東は、それこそどぶ板にも嫌われる坊ちゃんだったという話もある。抵抗できない小作人や奴婢をいたぶって楽しむ。そんな「子供時代」が彼の言行の端々から容易に想像できる。例えば人民公社化かうまくいかなかったときの彼の科白だ。「農民は奴隷だから殴りつけ虐待し食べ物を減らすと脅して働かせろ」(ユン・チアン『マオ』)。

(https://ja.m.wikipedia.org/wiki/マオ_誰も知らなかった毛沢東)

それでも成果が上がらず、餓死者が村々に満ちると彼は「死は結構なことだ。土地が肥える」(同)と死体を田や畑に肥料として埋めるよう指示している。
何千万もの死者が出れば人心は毛を去って優しい劉少奇に移って行く。毛は嫉妬に狂い、彼の引きずり落としを画策する。あの文化大革命である。毛は中、高生をけしかけ、毛の敵には略奪も殺人もお構いなし、そのためなら国中どこに行こうと汽車も旅館も食堂もタダにした。
かくて紅衛兵はイナゴの如く街々を荒らし、盧溝橋の欄干から旅順の東鶏冠山に建つコンドラチェンコ少将の慰霊碑まで何もかもぶち壊していった。その混乱の中で劉少奇は失脚し、二年間の拷問の末に殺された。
毛の息子は朝鮮戦争で戦死している。司令官は彭徳懐だった。毛は紅衛兵に彭をいたぶり殺させ、その恨みも晴らした。羅瑞卿も牢につなぎ、治療と称して足を切り落とした。郡小平も島流しにし、毛の意趣返しは終わった。
そうなると紅衛兵は不要になる。毛は彼らに「知識青年」の称号を与えて「今度は農村に下って農民から学べ」と命じた。約千六百万人の紅衛兵が僻地に送られ「農民戸籍」に編入された。もう故郷にも戻れない。まさに「僻地への流刑」(北海閑人『中国がひた隠す毛沢東の真実』)だった。

大方は今も帰れないままだが、例外はある。一つは雲南に下放されたグループで、中越紛争のおりに暴動を起こしかねなくなって、それで特別に帰郷が許された。二つ目は流刑を嫌って香港に脱出したグループだが、取り柄といったら暴行に略奪だけ。結局、それを生かして組織暴力団「大圏」を構成した。彼らについて米上院政府活動委員会は「アジアから入るヘロインを仕切る組織」と名指ししている。
そして三つ目が僻地での文芸活動などが党中央に認められて農民戸籍を離脱できた者だ。いま朝日新聞にコラムを書く莫邦富もそんな奇跡の帰還を果たした一人だ。
文革という地獄を生き抜いた彼が先日のコラムで、その地獄と同じものを日本で見たと書いていた。それがどんなおぞましい地獄かと思ったら映画「靖国」が見られないという「緊張感」だという。それが文革のさなか禁書の外国の本を、夜のトイレの中でいつ見つかるかと怯えながら読んだ、あの緊張感と同じだと。
今の日本で「靖国」を見たら袋叩きにされ手足を折られて殺されるとでもいいたいのだろうか。(以下略)

よど号犯人の遺物
ペルー・アヤクーチョの哲学科教授アビマエル・グスマン率いる強盗集団「センデロールミノソ(輝く道)」の手法は決まっていた。目標の村を包囲し夜明けとともに急襲、制圧する。村人を広場に集め、村長を引き据えて村人を搾取した罪で死刑を宣告する。



(センデロールミノソの党旗)



(中国の国旗)

処刑はまず若い兵士に村長の足や腹を撃たせる。度胸をつけさせるための訓練で、最後に小隊長格が頭に止めを撃ち込む。脳味噌が飛び散る。凄絶な処刑にすくむ村人に毎年の「革命税」の徴収を通告する。そうした村で支払いを拒否する者はなかった。
フジモリが登場して一味への摘発が厳しくなると報復にワラルにあったJICAの農業センターが襲われ、日本人スタッフ3人が研修員の前で処刑された。やり方は同じで、止めは女の指揮官がさした。
一味は革命税の徴収のほか、ときに襲った村の女を連れ去ることもあった。女は革命基地と彼らが呼ぶ山の奥のアジトに入れられ、兵士に抱かれて次代の革命戦士を産まされた。
好き放題を続けた彼らもフジモリを怒らせたのが失敗だった。JICA事件の翌年、グスマンはリマで逮捕された。彼は部下に残忍な革命ごっこをやらせておいて自分は優雅にもリマ中心街の隠れアジトで女と酒に耽る甘い生活を送っていた。それが暴かれてあほらしくなった七千人の部下が投降し、囚われた「女性数百人が救出された」とエルーコメルシオ紙が報じた。
グスマンは、「村長を殺す」手法は毛沢東に倣ったと供述している。石平の『中国大虐殺史』にはそれが「一村一焼一殺」と呼ばれたとある。


まず夜明けとともに村を襲い村長の財産を略奪したうえで火を放つ。集めた村民の前で村長を裁き「銃で頭を吹き飛ばして」処刑する。村長の田畑は小作人に分配し、小作料は革命税として納めさせる、という手順だと説明している。
ただ毛は「一殺」にはこだわらなかった。搾取者つまり金持ちが多ければその分、殺しも増える。江西省吉安では45日間で一万人を殺している。
形は搾取する者を処罰し、弱い小作人を助けるという共産革命風だが、この一村一殺方式は敵対する蒋介石の軍もやっていた。蒋の軍隊がこれを組織的にやったのは毛に追われて台湾に移ったあとだ。
彼らは台北で知識人を皆殺しにする「2・28」事件を起こした。標的は日本統治時代に司法、行政などを学んだ人たち。毛沢東が後に文化大革命で知識階層を抹殺していくのはこの蒋の手法と相通じるものがある。
これと同時に「地方に出かけては一村一殺をやった」(黄文雄)。

蒋の軍は20万人の台湾人を殺しているが、問題はなぜ彼が毛と同じ手法を取ったか。別に共産革命をやろうとしたわけではなく、「だれが新しい支配者か」を村々に教えこむ中国の伝統的手法と言われる。サル山の新しいボスが古いボスを叩きのめし、その子を殺し回るのとそう差はない。
グスマンもこの部分を見倣った。共産思想も人民解放も関係なかった。
では女をさらって次代の戦士を産ませる方式はだれに学んだか。諸説あって、ポルトガルの植民地経営に学んだ、がその一つ。原住民の女に産ませた混血児を核民地防衛の兵士にする。東ティモールのラモスーホルタ大統領などはその例になる。
もう一つがよど号事件の赤軍派説だ。
彼らは在日の女などを通して日本人女性を北朝鮮に誘いこんでは妻にして産ませた子が17人。しかしそれではいかにも少ないから欧州に遊学する日本人男女を偏して北に誘い込み、結婚させて「代を継いだ日本革命」(産経新聞)を目指した。
これがグスマンの拉致作戦に時期的に先行する。
その拉致犯が北朝鮮から追い返されてくる。ペルーの盗賊との接点も分かるだろう。ちなみに彼らの妻子はほぼ帰国済みで、彼らを支援する朝日新聞によると子供二人が早々に「父からの手紙を押収された」ことをネタに数十万円の国家賠償請求訴訟を起こしたと伝えている。
革命を口実にした金儲けをもう始めている。

以上引用終わり。



以下は
米比戦争
からの引用です。

アメリカ合衆国はフィリピン侵略のために残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。 この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地 総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニアである。(彼の三男がダグラス・マッカーサーである)



(ニューヨークジャー ナルの風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカの背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。)
(中略)
1898 年から1902年の間にフィリピンで戦闘を指揮したアメリカ軍の将軍30人のうち26人 は、インディアン戦争においてジェノサイドに手を染めた者であった。
(中略)
1901年9月28日、サマール島でバランギガの虐殺(英語版)が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人 は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多 いマニラ南部のバタンガスの掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。

以下は
アメリカのフィリピン侵略、住民虐殺
からの引用です。

1512年、世界一周航海中のマゼランがセブ島に上陸しました。これがヨーロッパ人に大 小7100もの美しい島々からなるフィリピン諸島の存在を知らしめることになります(マゼラン自身はセブ島対岸の「マクタン島」の「ラプラプ王」との戦いに敗れて命を落とします)。 16世紀後半からスペインのフィリピン侵略は本格化し、1571年にはマニラを植民地経営の根拠地と定めました。こうしてフィリピンの民衆は以後400年近く、列強からの植民地支配を受けることになります。
そもそも「フィリピン」という言葉自体スペイン語です。1543年、「ビリャロボス」遠征隊がサマル島とレイテ島に到着した際、これらの島々はスペイン王子フェリペ(のちの国王フェリペ二世)にちなんで、「フェリペナス」と名づけられ、その後全諸島の名称として用いられるようになりました。


以降この諸島の人々は元々自分たちとは無縁だった名称で呼ばれることになります。
スペインによる植民地支配は苛烈なものでし た。
「エンコミエンダ」という地方統治制度が設けられ、フィリピン制圧に功のあった軍人にこの座が報償として与えられ、彼ら「エンコメンデーロ」は私腹を肥やして民衆を苦しめました。成人男子は年間40日以上の強制労働を課せられ、また教会制度の確立によって民衆は二重に搾取されました。
多くの農民は小作農や農奴に転落する一方、カトリック修道会や、スペイン人、華僑、メスティーソ(混血)の大地主が土地を独占し、フィリピンの社会はごく一部の富裕層と大多数の貧困層に二分されたのです。

(植民地から収奪した金銀財宝で建設されたエル・エスコリアル修道院 )
(中略)
元々独立運動の指導的立場にあった「アギナルド」は、アメリカの手引きによって亡命先の香港から帰国し、革命政府の大統領に就任しましたが、アメリカの真意が明らかになると狼狽し、結局は寝返ります。まるで口先では国民に徹底抗日を呼びかけながらも度々国共合作を蔑ろにした蒋介石みたいなゲス野郎でした。
フィリピン人がこういう腑抜けばかりだったならば、アメリカ軍はスペインとの戦争のように簡単に勝利を収めたことでしょう。
しかし民衆は祖国を守るために立ち上がり、ゲリラ化してアメリカ軍を大いに苦しめました。そしてまるでこの少し以前までのインディアン大量虐殺のように、半世紀以上後のベトナム戦争のように、アメリカ軍は民衆に対して憎悪をたぎらせ、殺戮しまくるのです。
(中略)
サマル島の第九歩兵師団・司令官ジェイコブ・スミス准将はゲリラ戦に悩まされた挙句に、
「私は彼らを牢獄につなぐことなどを欲してはいない。私が欲しているのは彼らを皆殺しにして、焼き尽くすことだ。君たちが彼らをたくさん殺せば殺すほど、焼けば焼くほど、 私を喜ばすことになる」(明石ライブラリー 38・萩野芳夫「フィリピンの社会・歴史・政治制度」)
「捕虜はいらないぞ。おまえたちは、殺して焼けばよいのだ。一人でも多く殺して焼けばそれだけ私も嬉しく思うだろう」(青木書店・歴史教育者協議会/編「知っておきたいフィリピンと太平洋の国々」より) と宣言しました。

(一時的に指揮下にあった)海兵隊旅団長 L・ウェラー少佐が、「何歳が限度ですか」と訊ねると、 「10歳以上の住民全てにこの命令を適用せよ」(同上) と答えたそうです。
(中略)
後に第26代大統領となったセオドア・ルーズベルトも、このような残虐行為は「対インディアン戦争では何百回となくおこった」のであって、「付随的に残虐行為があったという理由で、文明のための闘争から身を退くことは、偉大な国民にとって全く価値のないことだ」「道徳的な理由でフィリピン群島を放棄しなければならないとすればアリゾナ州もアパッチ族に引き渡さなければならなくなる」(「知っておきたい・・・」より)と発言しました。
フィリピンを支配するためにはどんなに虐殺を重ねても構わないと開き直ったのです。
(中略)
約10年間続いた抵抗戦争によって革命軍は 約1万6千人死亡し、戦乱による飢餓や疫病で民間人は約20万人死亡したと言われています。
またルソン島南部の司令官ベル准将は戦争開始から約2年間でルソン島の人口の6分の1が殺されるか、戦乱による飢餓により発生したデング熱によって死亡し、農家の家畜だった水牛の9割以上が死亡し、米の収穫量が平年の4分の1に減少したと報告しました(「知っておきたい・・・」より)。
このような惨禍を通してフィリピン民衆の抵抗はほぼ制圧され、アメリカの工業製品の市場であり原料供給地でもある、完全なるアメリカの植民地になったのです。

以上引用終わり。

こちらもどうぞ。
『米軍は正義の軍隊か?』

『ニューヨークタイムズ(NYT)の大西哲光の正体』

『朝日新聞の真実』

『日本軍蛮行の 虚実 <誤解編>』

『私の村は地獄になった----ベトナム戦争、もうひとつの戦争犯罪(韓国軍による虐殺)』

『昭和史の真実 PART III 欧米植民地支配の世界史的展開と大東亜戦争』

【資料】西暦とイエス
西暦とは、一般的に太陽暦であるユリウス暦、グレゴリオ暦を総称しますが、イエス・キリストの生年を記念し、その年を紀元1年としています(※その前年は紀元前1年で、紀元0年は存在しません。これでタコも含め (^_^;) よく計算間違いが起きます)。
紀元後は「AD」または「A.D」(ラテン語Anno Domini、Annoが年、Dominiが主の意味)、紀元前は英語では「BC」または「B.C」 (Before Christ)と日本では一般的に略称されますが、独語では「v.Chr.」、仏語では「av.J-C」と略称されます。またキリスト紀元とも呼ばれています。このため非キリスト教圏では、その使用自体に拒否感を覚える者も少なからずあるようです。ちなみにユダヤ教では“共通暦Common Era”といい、「CE」と略称されます。
しかし、この西暦の使用に関しての大きな問題は、ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウスによって算出されたイエスの生年=紀元1年が、実際は、“計算間違い・勘違い”であり、イエスの生年とは大きなズレがあることです。
「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令 が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。人々はみな登録をするために、それぞれ自分の町へ帰って行った。ヨセフもダビデの家系であり、またその血統であったので、ガリラヤの町ナザレを出て、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。それは、すでに身重になっていたいいなづけの妻マリヤと共に、登録をするためであっ た。」(ルカ2:1~5)

以下は
『ローマ人の物語 パクスロマーナ[下]16』
からの引用です。

正確な現状把握こそ統治の基本データであることを知っていたアウグストゥスは、その治世の間に三度、本格的な国勢調査(チエンスス)を全帝国規模で実施した。当時のユダヤはいまだ同盟国だったから、同盟諸国にまで広げた調査だったのだろう。そしてこの三度の国勢調査は、アウグストゥス自ら記した『業績録』によれば次のようになる。
◇一度目は、彼自身とアグリッパが執政官であった年、つまり、紀元前28年。
◇二度目は、ガイウス・ケンソリヌスとセクストゥス・アプレイウスが執政官であった年、つまり紀元前8年。
◇三度目は、セクストゥス・ポンペイウスとセクストゥス・アプレイウスが執政官の年、つまり紀元後14年。
ちなみにローマでは、建国何年と言う数え方はほとんどせず、誰と誰が執政官であった年、と言う数え方をしていた。紀元を使うのは、キリスト教が支配するようになった後世の考え方である。
それにしても、イエス・キリストから数える「紀元」編年方式では、イエスの生誕前後にはローマによる国勢調査は成されていない。遠方の属国ゆえに時間的ズレがあったと考えても、8年のずれは大きすぎる。また、ユダヤ独自の調査であったと考えるのも、当時のユダヤは、大王ヘロデの死の後で内紛状態にあり、国勢調査どころの話ではなかった。
いずれにしても、この私の素朴な疑問に納得のいく答えをくれた研究者は一人もいない。
とはいえ、この時期にイエスが生まれたことは確かなのだろう。となればイエス・キリストは、ローマが最盛期を迎えつつあった時期に、生まれ、行き、死んだ人ということになる。

以上引用終わり。


(ヘロデ王の嬰児殺戮。ヴォルテッラ 1550年)

先の幼子イエスを殺そうとしたヘロデ大王に関する『マタイによる福音書』の記述から、「イエスはヘロデ王の在命中に生まれていなければならない」のですが、当時の記録から、ヘロデ王は紀元前4年に死亡したことが確定していることが挙げられます。
また、「ルカによる福音書」の記述にある「アウグストゥスの人口調査」が、紀元前8年に行われたとされていることからも、計算には4年から8年の誤差があることは間違いありません。

よって西暦をキリスト紀元と呼ぶことは相応しくなく、事実、当時のプロテスタントは旧約聖書『ダニエル書』7章25節の預言から(?)、ローマ教皇グレゴリウス13世が1582年2月24日に制定したこのグレゴリウス暦を、“黙示録の獣の暦”または“反キリストの暦”と考え、長らく、使うことを頑なに拒否しました。
「彼はいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期がたつ。」(『ダニエル書』7:25)
ちなみにプロテスタントのドイツでは、118年遅れの1700年、英国国教会では1752年、中国は1912年、ソビエトでは1918年、日本では1872年(明治5年)12月3日を1873年(明治6年)1月1日として施行しました。また東南アジア諸国では仏滅紀元に変更してこれを使っています。
が、現在でもユダヤ教では太陰太陽暦のユダヤ暦、イスラム圏ではイスラム暦やイラン暦、共産革命以前のロシアや現在のギリシャ正教会では今でも太陽暦のユリウス暦を用いています。
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