ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。
地震発生前日の9月5日に、台風21号が北海道西側の海上を通過しました。
□2018年台風21号の進路
上記、図4は台風21号の通過・上陸コースを示したものです。
この台風の勢力は、関西空港が雨・暴風・高潮のために冠水したほどの強さでした。この台風が勢力を保ったまま北海道の西側の海上を通過した1日後に地震が起きています。
以下は
台風・前線と地震活動
㈲環境地質研究室
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsprs/55/5/55_325/_pdf
からの引用です
2.低気圧通過前後の地面(距離・座標)変動
中略
-賄賂を使った逃避行-
私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音のしさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこの頃には、する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。
この脱出コースは、関所があり、検査所があり、
牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、
最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。
このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)
-以上「生きて祖国へ5 死の三十八度線」引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会-人間の皮を被った悪魔・北朝鮮人民-
満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にっつに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)
北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。を履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。
若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケの」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。負けた者の宿命に、悲しいめを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれてって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。
―南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら―
乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日一人1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。
ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。
そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやって来た。
遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、
「これでも食え!」と言いざま、
足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。
久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、
この光景に、窓の表情はたちまち青ざめたりに変わった。
今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないために知恵を絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。
その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
「今度は一切の所持金を提出しなければならない。
もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが
後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように。」
有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、
遠くシベリア送りとなったのである。
―以上「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑より
「三十八度線」木下宗一[著]
-引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 -
「満州や北朝鮮からの初期の脱出者は悲惨で、今も念頭を去らないつかのエピソードがある。
北朝鮮で農業を営んでいた老夫婦は、年頃の娘二人を連れ、 辛苦のすえやっと38度線近くの鉄原にたどりついた。そこで見たものは、日本人の娘達が次々にまずソ連兵に犯され、ついで
朝鮮人の保安隊に引き渡されてさらに散々にめられたうえ、
虐殺されている光景であった。」
(中略)
「吉州や端川の海岸線にでた人たちに対するソ連兵や朝鮮保安隊の略奪と暴行は、残酷をきわめた。夜中に雨戸を蹴破って侵入してきたソ連兵は、17になる娘を父親からひったくるように連行。 娘は明け方になり無残な姿で、涙も枯れはてて幽鬼のごとく帰ってきたという。
みなソ連兵を朝鮮人が案内したのだった。
部落ごとの保安隊の関所では、厳重な身体検査が行われ、金や着物や米などが取り上げられた。靴の底や、女の髪のなかから金を探し出すのは普通。一糸まとわぬ姿にされ、取調べられた若い女性もあった。城津での惨状は言語に絶した。(中略)朝鮮人の男女が数十人の団体でおしかけ、 干してある洗濯物から赤児の着物まで剥ぎ取って掠奪され、あげくは婦人の“提供”を要求されたという」
博多港から車で40分ほどの二日市温泉郷につくられたのが、「二日市保養所」である。
強姦によって妊娠させられた女性たちには、堕胎手術が施された。また、性病に感染した女性たちについても、って回復するまで治療が行われた 。
-以上『引揚民間人を襲った朝鮮保安隊の略奪・暴行・殺戮の嵐 』正論 2005年11月号より
-惨憺たる北鮮引揚げ-
(前略)南鮮の日本人は終戦の年の暮れまでにど全て引揚げたが、北鮮では約31~2万の日本人がそのまま残っていた。もともと北鮮に住んでいた27~8万と、満州から戦火をけて逃げてきた4万人である。北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦を欲しいままにし、在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられることになった。白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にされた。反抗した者、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。
「各地の凄惨な記録は読むにえない」と、『朝鮮終戦の記録』の著者:森田芳夫氏は書いている。それらは主としてソ連軍兵士によって行なわれた事であり、また占領地の住民の保護にあたるべきソ連軍当局の責任であることは明らかだが、ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かったし、ソ連軍を背景に行政権を掌握した北鮮の人民委員会も、その責任はれない。
例えば3000名中、その半数が死亡した富坪の避難民の情況を調査するため派遣された
咸鏡南道人民委員会検察部、李相北情報課長自身、次のように報告している。
…かれら(在留日本人)の大部分は、途中において衣類、寝具等をされ、零細なる金銭と着衣のみにて咸興市内に殺到したるも…
われわれは36年間の日帝の非人道的支配に反発し(福田注 恩を仇で返す朝鮮標準)、
立場が逆になった日本人全般に対する民族的虐待という、
ごく無意識のうちにファッショ的を犯したことを告白せざるを得ない。…
駅前に雲集せる三千余名の避難民を空砲と銃剣をして、即時咸興市外脱出を強要し、市外に追放した。その結果、断え間なく降りつづいた雨中の川辺と路傍に野宿し、極度のと栄養不良を激成し、…
富坪避難民の宿舎は実に呪われたる存在である。それは実に煤煙と、余りの悲惨さに涙を禁じ得ない飢餓の村、死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐため戸窓はらず、カマスで封鎖され、白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒のなり、それは避難民を救護する宿舎ではなく、呪いを受くる民族のまとめられた死滅の地獄絵図にして、老幼と男女を問わず、な顔、幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり、足はきかず、立つときは全身を支えることも出来ず、ぶるぶるい、子供たちは伏して泣す。無数の病める半死体はきながらカマスの中にしており、暗黒の中にびつつ、……そこに坐しているのは実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず…(森田芳夫『朝鮮終戦の記録』)
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。こうして在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。せこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾にたおれ、そして時には泣き叫ぶ子供の口をいで死にらしめるまでして、人々は南にり着いたのである。38度線は朝鮮民族にとっては何十万の血の流れた同胞の境界線となったが、20万を超える日本人にとってもまた、血と恨みにられた『天国と地獄の境』となったのである。
-以上「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 89年 原書房
-南朝鮮(韓国)人の証言-
15日の夜、(朝鮮半島北部にある)羅南の(日本)軍当局は最後の破壊作戦に出て、全市の軍事施設に火をかけて焼いた。その夜、僕は鏡城の北にあたる山の上から、炎上する羅南の赤い空を眺めていた。…36年、わが国を軍靴で踏みにじってきた侵略者の断末魔の光景であった。朝鮮の農民たちは、15日(終戦日)が過ぎても何が起こっているのか正確には知らないでいた。ただ、津波の引き去るように逃げてゆく日本軍、警察、一般日本人が、もう二度と戻ってこないようにと願いながら、そのさまを眺めていた。
(中略)
羅南の軍事施設が燃えた晩、市内は無人地帯であった。数千人の日本人は、臨時疎開して、すぐ帰るつもりであったかもしれぬが、市が燃え尽きても、ついに一人も戻らなかった。日本人は永遠に去ったのである。帰ってきたのは全部朝鮮人であった。彼らは、防空壕からはい出し、あるいは郊外の避難先から、続々戻ってきた。
火災の翌日、いたるところにのくすぶる市内で、物資あさりの騒乱が始まった。窓も門も開け放しのまま去った日本人の空き住宅、商店、倉庫などにアリのように人間が群がった。家財、衣類、食器、装飾物、楽器、娯楽品、靴、傘、書籍、自転車、あらゆるものをかっさらい運び出すのに忙しかった。町全体が怒鳴り合い、奪い合い、誰もが目を皿のようにして走っていた。
ある人はトランクを担いで逃げる。ある人は自分の体よりも大きい布団袋を引っ張って走る。ある人はリヤカーに山ほど積んで汗を流しながら家に急ぐ。ある婦人は衣類をいっぱい頭に載せオーバーを抱えて土手にのぼる。ある老人はチゲ(背中に荷物を担ぐ時に用いる木製の背負子)の上に衣類ダンスを担いで走る。みな走る、ぶつかる、る、宝物を求めて、より大きい高級住宅に入る。先着の略奪者は血相を変えながら部屋から部屋に出入りする。集めた品物から目を離したとたん、別の者が担いで逃げる。家に持って帰っても、また出ていくと、その間に誰かが来て持ち去る。こういう時には誰も安心できない。隣り近所、みな疑心暗鬼である。避難先から帰りの遅れている肉親をる。だからといって呼びに行く暇もない。
「――あのとんま野郎!こういう重大な時に家に居さえすれば、
いっぺんに大金持ちに成れるのに・・・!」
2、3千軒の日本人民間住宅と商店、数百件の焼け残りの軍用官舎は、わずか5,6時間でスッカラカンになった。
僕が羅南に着いた時は、そういう"敵産の分配"が終わってから一週間も経っていた。残るのは日本人の不動産である。日本人の家屋、商店、車庫、倉庫の壁や門に、色とりどりのペンキで、大小さまざまに、ハングルや漢字で所有者の名前が書かれていた。"李XXの家"と書いた反対側には、もっと大きな文字で"金XXのジップ(家)"と書いたり、前に書いた文字を消して一尺もある大きさの漢字で"この土地は40年前のわが祖先の土地なり"と書いてあったり、"この建物では近き将来平和食堂開業予定" "まもなくアリラン床屋になります" "この建物の主、日本人某は一週間前、小人(自分)に移譲せり"等々、何とかして自分のものにする口実を書きつけていた(まもなく敵産家屋、土地、軍事施設は全部登録され、政府または全人民の所有になった)。
僕の伯父が住んでいた初瀬町のはずれの谷間の入り口に、氏経営のよく手入れした農園があった。解放前には周辺の朝鮮人は皆、小玉さんを尊敬していたが、世の中が逆さまになって、皆、彼を"日帝の悪質地主"とののしった。今度の騒動で、小玉邸もなはずはなくサジ一本、畳一枚残さず、すっかり群衆に没収された。
引揚げの惨事は北朝鮮だけに起こったのではない。
南朝鮮(韓国)においても、日本人に対し朝鮮人はあらゆる悪事を働いた。
北と南に民族性の違いはないのである。
―以上「朝鮮戦争の真実 -元人民軍工兵将校の手記-」 朱栄福 1992年 悠思社
検察組織における調査活動費の裏金流用に関する再質問主意書
提出者 鈴木宗男https://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a169270.htm