今、テレビでアンチヒーロー見てるんだけど
ゴキブリ検察官共が無実の罪で田中角栄首相を失脚させたせいで、非正規職員画劣悪な環境で働かせられてる
検察官を見たらその場で殴り殺そう
スーパー戦争犯罪人の遺伝子は皆殺しだ!!
【追記】
新しく来た人は過去記事読まんと分からないね
これではいかん。
戦前、帝人事件という巨大疑獄事件をデッチ上げ、結果、政治家が軍部の横暴に誰も口を出せないという空気を作ったのが検察。
かつて日中国交回復やアラブ寄りの中東政策で、独自外交を模索したために米国の虎の尾を踏み、ロッキード事件で葬られた──とされる田中角栄元首相。
ロッキード事件という巨大疑獄事件をデッチ上げ、国民を令和5年にまで至る貧窮状況を作り上げたのも検察。
ちょっと脅せば法律を捻じ曲げても、ご主人アメリカ様の言う通り
そもそも、
国民が飢えて苦しんでるのに、隠匿財産や隠匿食料を摘発するようGHQから指示されて作られた
国民の敵が検察特捜部
結果はこの通り。
以下は5chからの引用です(本文はリンク先で)。
米から日本への脅迫状「年次改革要望書」を丸呑みする自公政権の“売国度”
https://www.mag2.com/p/news/575530
ところで、米国の要求による改変は、みなさまおなじみの「労働者派遣法」や「郵政民営化」だけではありません。
これまで独禁法改変と持株会社解禁、大店法(大規模小売店舗法)廃止、法科大学院や司法試験制度改変、保険業法改変、建築基準法改訂、健康保険の本人3割負担導入、日本道路公団の分割民営化、新会社法での三角合併容認……などなど、
次々と制度改変を行ってきたのですが、これらすべてが米国の命令で行われてきたことでした。
こうした改変で、どんなことが日本国で起こってきたでしょうか。
独禁法や持株会社解禁で、M&A(企業の合併・買収)が盛んになり、子会社の切り売りや子会社従業員の賃下げがしやすくなりました(子会社は持株親会社への団体交渉権がない)。
巨大化した持株会社は寡占・独占化しやすく、市場の効率的な弱肉強食化が図られます。
司法試験制度改変では、弁護士を大量輩出し、アメリカ並みの訴訟社会にして、権利の主張がバンバン行われる強欲な「自由」と「民主主義」の風潮を実現させる形となっています。つまりは、米国企業が日本の弁護士を安く使えるようにするのが目的でした。
大店法廃止では、中小小売店への保護がなくなり、商店街を疲弊させて、日本全国にシャッター通り商店街を拡げました。
新会社法による三角合併の解禁は、株式時価総額が巨大な米国企業が、容易に日本の大企業を株式交換で飲み込みやすくする制度変更でした。
また、保険販売においても、当初から日本の保険会社は「ガン保険」の販売が一切禁止されました。これによって、日本でのガン保険は米国保険会社の独壇場になっています。
要するに「年次改革要望書」とは、アメリカ社会の「新自由主義」「強欲資本主義」「弱肉強食」の論理を日本にも普及させたい──という米国の脅迫的要求にすぎないのです。
「構造改革」「規制改革」の名のもとに、日本の古き良き社会制度や慣習がどんどん廃止させられ、「自己責任」が中心のアメリカ化がすすむ一方なのです。
以下は
https://business.nikkei.com/atcl/opinion/15/200475/052100160/?P=3
からの引用。
ここまでして「裁量労働制拡大」を、なぜ、しなければならないのか?
日本の財界の要請? いや、それだけではない。
「残業代がバカにならないから、労働時間規制を見直してね!」って、“アメリカさん”に要請されたからだ。
Recommendations
The American Chamber of Commerce in Japan (ACCJ) urges the Ministry of Health, Labor and Welfare (MHLW) to modernize the current work-hour regulations to better reflect the changing social and economic environment, including Japan’s evolution into a services-oriented,
knowledge-based economy and the diversification of the Japanese workforce.
(邦訳)
提言 在日米国商工会議所(ACCJ)は厚生労働省に対し、現行 の労働時間法制を見直し、サービス業の台頭、知識集約型 経済への移行および就業形態の多様化等社会経済環境 の変化に対応した制度の創設を要請する。
このような文言で始まるのは、
Modernize Work Hours Regulation and Establish a White-Collar Exemption System(労働時間法制の見直しおよび自律的な 労働時間制度の創設を)と題された意見書で、2006年12月6日、在日米国商工会議所(ACCJ)が、安倍政権(第一次)に提出した。
□ACCJとはどんな団体か
ACCJは1948年に設立され、日本で活動する米国企業1400社の代表が加入し、約3000人のメンバーが名を連ねる。
そのミッションは、「日米の経済関係のさらなる進展、会員企業および会員活動の支援、そして日本における国際的なビジネス環境の強化等」だ。
メンバーによって、メンバーのために運営される完全に独立した商工会議所として、日本で最も影響力のある外国経済団体の1つで、日米のビジネスの進展を図るコミュニティーとして高い評価を受ける一方、実情は「政策を日本政府に命令している」団体とされている。
先の意見書が出された当時、日経産業新聞では、以下のように報道(要約)。
ACCJは「同制度は優秀なホワイトカラーにやる気と自信を与え、日本の国際競争力も向上する」と主張している。
同制度では、働く人が忙しいときは深夜まで働ける一方、暇なときは早退することも可能だ。仕事の成果や組織への貢献度で給与を決めるので、残業しても給与は増えない。
米国では年収2万3660ドル(約270万円)以上のホワイトカラーが対象だが、日本では年収800万円以上を対象とすべきだと提言している。
厚生労働省は2007年の通常国会で同制度の法制化を目指し、日本経団連は導入に賛成している。
(2006年12月7日付日経産業新聞から)
一方、しんぶん赤旗ではこう報じている(要約)。
(前略)
これは際限ない長時間労働を合法化する制度です。
以下は
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/571496ed06534eb4f5836b83543f8ceec00e1ac5
民事業が本格化する。27万人もの日本人が満州にわたり、そこで悲惨な敗戦を迎えることになった。
ドイツがフランスを占領して第二次大戦が本格化すると、フランスの敗因は産児制限と個人主義が生んだ少子化にあると分析された。
近衛内閣は人口増加政策に転じ「産めよ殖やせよ」をスローガンに産児制限運動を弾圧した。
日本が敗戦を迎え、出征した兵隊たちが帰国するとベビーブームが始まる。日本を占領支配したGHQは、人口の急増と食料危機を日本政府に対応させる一方、人口問題には強い関心を示した。日本が再び軍事侵略を繰り返すことを恐れたからである。
GHQは日本の人口膨張を抑える協力者として、戦前サンガー夫人に感銘を受け産児制限運動に関わり軍部から弾圧された加藤シズエ氏をピックアップする。表では日本の人口問題に不干渉の姿勢を見せながら、日本人の手による産児制限導入をGHQは狙った。
加藤シズエ氏の自伝によれば、終戦直後にGHQの係官が自宅を訪れ、日本の民主化への協力を求められた。さらに戦後初の総選挙に立候補することを勧められ、加藤氏は婦人参政権の付与を条件に申し出に応ずる。
こうして加藤氏は夫の勘十氏と共に社会党の女性議員になった。
GHQの狙いは米国の押し付けと見られずに、議員立法での優生保護法の成立を図ることだ。それは母体を保護する目的での人工妊娠中絶を認めさせることだった。
日本政府内には米国の隠された意図を感じ、将来的に国家の滅亡につながるという反対論もあった。
しかし当時は闇の堕胎が頻発し、母体の保護を無視できない状況が生まれていた。こうして1948年に優生保護法が成立し、日本は世界でも例を見ない人工妊娠中絶を合法化した国となった。
以下は
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/10599742.html
からの引用です。
憲法が米国によって押しつけられ、軍隊を持てない憲法にされた。
その後、軍隊を作るよう要請され、
警察予備隊が設置され、それが自衛隊になる。
日韓基本条約1965年。米国の指示により11億ドルを韓国に。
当時の韓国の国家予算は3.5億ドル。
日本版CIAを設けようとしたが、米国の
圧力で没。
北方領土。
日ソ国交正常化交渉をはじめて、ソ連が二島を返還することを約束したが、
米国の日本への圧力で中止に追い込まれる。
(ダレスの恫喝)
(タコ注、ここから。)
中曽根内閣の時、次期支援戦闘機を自主開発することに決まっていたが、米国の要請でドタキャン。
貿易摩擦で米国の言いなりの歴史。
繊維、オレンジ、牛肉。
米国の要求で、円高に。プラザ合意。
米国からの宿題として、毎年の年次要望書。民主党時代に廃止。
誰がどう見ても支持出来ないイラク戦争
で米国支持。
米国の要求により、核開発停止と交換に
北に金をやる。1200億円。
慰安婦問題で、米国の要請により、韓国に10億払い、合意。
その後韓国が反故にする。
以上引用終わり。
以下は再度。
「平沼騏一郎-検事総長、首相からA級戦犯へ 」(中公新書, 2657 萩原淳)
司法と行政の頂点を極めた唯一の政治家・平沼騏一郎。
東大を首席で卒業後、能吏の聞こえ高く、大逆事件を処理し、検事総長、大審院長を歴任。政界進出を目論み右翼団体・国本社を組織する。
軍人らの期待を集め、日中戦争下、首相に就任。
日米開戦後は重臣、枢密院議長として和平派へ。
機会主義と映る行動から右翼に銃撃され、自宅放火にも遭った。
本書は、天皇崇拝の国家主義者、陰謀家、A級戦犯として断罪され続けた平沼の実像を描く。
以下はウィキペディア帝人事件より
帝人事件(ていじんじけん)は、戦前の1934年(昭和9年)に起こった疑獄事件。
齋藤内閣総辞職の原因となったが、起訴された全員が無罪となった。
そのため、現在では倒閣を目的にしたでっち上げの可能性が極めて高いものと見なされている。
引用終わり
デジタル大辞泉 帝人事件より。
昭和初期の疑獄事件。1927年の金融恐慌後,台湾銀行は鈴木商店に対する債権の担保として,その子会社である帝国人造絹糸(帝人)の株22万余を所有。台銀も日銀から特別融通をうけたため,帝人株は日銀に入れられた。
その後,帝人が業績をあげたため,財界グループ番町会の河合良成らが10万株を入手。これに関連してスキャンダルが発覚。1934年5月台銀,帝人の首脳をはじめ,黒田大蔵次官,次いで三土忠造鉄相,中島久万吉商相らも起訴,7月斎藤実内閣は総辞職した。
裁判の結果,全員無罪となったが,事件は平沼騏一郎らの斎藤倒閣の陰謀によるものとされる。
百科事典マイペディア 斎藤実内閣【さいとうまことないかく】より
1932年5月26日―1934年7月8日。五・一五事件後,軍部の圧力で中間的挙国一致内閣として成立。
内田康哉(こうさい)外相の焦土外交で1932年満州国承認,日満議定書調印。1933年国際連盟を脱退した。
国内ではインフレと農業恐慌の中で自力更生を奨励し,文部大臣鳩山一郎は滝川事件を起こした。また軍部の圧力で五相会議を開き政党の力を排除した。1934年帝人事件で大蔵省高官が逮捕され総辞職した。
以下は
❴靖国神社に祀られるA級戦犯:平沼騏一郎❵人民日報日本語版
からの引用です。
平沼騏一郎は津山藩(現在の岡山県)の藩士の家に生まれ、帝国大学法学部に入学した。
1923年、山本権兵衛内閣の法務大臣に就任した。
平沼は日本政界で「敬神家」と呼ばれ、天皇を尊敬かつ崇拝し、日本の国体を敬い、日本は「神の国」であり、天皇が親政をすべきと主張した。
彼は1924年に国家主義で国粋主義の団体を創立し、「国本社」と名づけた。
平沼の影響を受け、司法界の原嘉道、鈴木喜三郎、山岡万之助、内務官僚の後藤文夫、海軍界の加藤寛治、末次信正、陸軍界の荒木貞夫、真崎甚三郎、小磯国造らが彼の旗の下に集った。
彼らの多くは拡張主義を熱狂的に主張する軍国主義分子で、特に陸海軍関係者は、後に侵略戦争を発動する中心メンバーとなった。
1939年1月、近衛内閣が総辞職を宣言。平沼騏一郎は総理大臣に就任し、平沼内閣を組織した。
当時、日本はすでに全面的な中国侵略戦争を始めており、陸海軍の主力は中国の戦場から抜け出すことができず、日本の人、財、物等の戦争資源が日に日に欠乏し、政府が対策を講じて、局面を打開することが求められていた。
平沼は着任早々「生産力拡充計画要綱」を出し、日本の人力、物力、および財力を総動員して、軍需産業の生産規模を拡大し、中国侵略戦争を維持することを決定した。これに伴い、兵役法を改正し、短期兵役制を廃して国民兵役期間を延長し、青壮年を次々と戦場へ送り出した。
1939年3月、平沼内閣は「国民精神総動員委員会」を設置。文部大臣である荒木貞夫陸軍大将が委員長となって、さらに残虐な憲兵警察制度を実施し、全国の人、財、物をすべて政府当局の手中に集約。国民全体を無条件に戦争協力へ駆り立て、軍事独裁のファシスト戦争体制を築き上げた。
平沼の任期中、ノモンハン事件が勃発。関東軍は中蒙国境で大規模な武装衝突を引き起こした結果、ソ連軍に一個師団を潰滅させられ、日本側は交渉の席につき、ソ連と停戦協定を結ぶことを余儀なくされた。
1940年7月、平沼は近衛内閣の内務大臣および国務大臣に就任。近衛内閣の重要メンバーとして、内閣を戦争拡大、対米開戦の道へ積極的に導いた。
1945年4月、平沼は枢密院議長となる。この時、日本はすでに大敗を重ね、収拾がつかない状況となっており、武器を捨て無条件降伏するよりほかなかった。しかし、日本の行く末を論じる御前会議の席で、平沼は「国体」維持の立場から、国体を残すことに固執し、無条件降伏に反対。時には号泣して訴え、衆議に反論し、必死になって彼の「国体論」を擁護した。
日本が無条件降伏を宣言して間もなく、平沼はA級戦犯の疑いで逮捕され、巣鴨プリズンへ収容された。
1947年11月、極東国際軍事裁判は中国、アメリカ、イギリス、オランダに対する「侵略戦争罪」、およびノモンハン事件発動の責任により、「侵略戦争共謀罪」で終身禁固という判決を下した。
引用終わり。
以下はウィキペディアより。
5.15事件(ごいちごじけん)は、1932年(昭和7年)5月15日に日本で起きた反乱事件。
武装した陸海軍の青年将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣犬養毅を殺害した。
1936年の二・二六事件の元総理大臣の斎藤実(まこと)と高橋是清暗殺
死亡者
松尾伝蔵内閣総理大臣秘書官事務取扱(私設秘書)
高橋是清・大蔵大臣
斎藤実・内大臣
渡辺錠太郎・教育総監
負傷
鈴木貫太郎侍従長
岡田啓介首相は人違いで妹婿、松尾伝蔵が殺され難を逃れる
以下は
満州写真館 満州の産業
からの引用です。
満州国が設立した当初、満州全土の四分の一は耕作の可能な土地でありながら、まだその半分くらいしか耕作されていませんでした。
満州国設立後、農業の発展は国策として展開され、飛躍的な発展を遂げます。また当時、日本の食糧問題解決の主要な役割も期待されていました。
農産物としては大豆についで高粱、粟(あわ)が挙げられ、その他、陸稲、綿花など、多くの作物が栽培されていました。
満州は、全土で日本に比べて少雨で、特に北部は少なく、そのため北部では南部ほどに農業は発展していませんでしたが、広く平らな土地であることから、満州国設立後、大規模農場がいくつも出来ており、今日も続く農業の基礎が作られました。
北部満州は、大豆、粟、高粱、小麦の順で生産量が多く、中でも大豆は突出した生産量を誇っていました。
一方で、南部に行くほど、作付けは高粱が増えます。南満州では高粱が最も多く、大豆や粟がそれに続く割合です。
以上引用終わり。