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tacodayoのブログ

ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

黙示録の大淫婦とはローマ・カトリック

ローマカトリックが黙示録の大淫婦(いんぷ)というのはなかなか信じがたいことでしょう。
『その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。
私は、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。
この女を見た時、私は非常に驚き怪しんだ。
すると、御使は私に言った、「なぜそんなに驚くのか。(略)』黙示録17:5から7
とある通り、これを書いた当のご本人さえ『私は非常に驚き怪しんだ。』のですから。

『この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。』というのは、カタリ派への迫害を見てもわかります。「清浄」を意味するカタリ派(アルビ派)はバタリニ派、ラングドック派などとも呼ばれ、カトリックの聖職者の腐敗に対する民衆運動として始まったとされます。が、早くも1022年にはカタリ派信徒の最初の処刑が行われ、1028年と1056年に正式に異端宣告されました。
さらにトゥール教会会議(1163年)や第3ラテラン公会議(1179年)において信仰の禁止が正式に決定されました。
しかし、その後もカタリ派は信者を増やし続けたため,ローマ教皇インノケンティウス3世は,1209年、カタリ派掃討の為のアルビジョワ十字軍の結成を呼びかけました。

(インノケンティウス3世。)

(こちらはローマにある教皇イノケンティウス10世のブロンズ像の前で2004年10月29日に行われたEU憲法の署名)
十字軍は南フランスはピレネー山脈北東部のラングドック地方に浸入し,街や都市を跡形もなく破壊し、作物を焼き,全住民を虐殺しました。
この絶滅は広い範囲で行われ、大変凄まじく、近代ヨーロッパ史上初の「ジェノサイド(大量虐殺)」だとされています。

例えば、最初の十字軍の攻撃は7月21日にベジエの街に対して行われ翌日に街は陥落しましたが、少なくとも一万五千人の男女、子供がアルビ派やカトリックであるか否かにかかわらず無差別に殺戮されています。殺された住民のうち、アルビ派はわずか500人程度とされます。
この時、カトリックとアルビ派との区別を問われた教皇特使のアルノー・アモーリは
「すべてを殺せ。神は己の者を知りたまう」と叫んだとされます。
さらに1229年にはカタリ派への対抗策として異端審問制度が実施されました。
1244年にはカタリ派の最後の砦であったモンセギュールが陥落し、立て篭っていた多くのカタリ派信者が改宗を拒んで火刑に処せられました。
南フランスにおける異端審問は13世紀を通じて行われ、その後も捕らえられたカタリ派指導者たちが処刑され、最後の「完徳者」ギョーム・ベリパストが捕らえられたのは1321年でした。
激しい迫害により1330年を過ぎると異端審問所の資料からカタリ派の名前は消え、信徒たちは山中や森に逃れ、各地へ離散し隠れて信仰を保持しました。

■異端審問と聖書所持の禁止
グレゴリウス9世が整備した異端審問の嵐で、百万人が殺されたとされ、その治世下の1239年には自国語で聖書を読むことが禁止されました。
バチカンの公用語、『ゲマトリアで666のラテン語』の聖書しか読むことが認められませんでした。
やがて聖書を所持しているというだけで処罰され、後には火炙りで殺されるのです。
こんな宗教がキリスト教の訳がありませんよね。(^_^;)
この暗黒の中世の三百年間に、血に餓えた悪魔どもは強姦の後、五百万人の女性を火炙りで殺害しました。
このようにローマカトリックは聖母崇拝(実はイシュタル=セミラミス信仰)など、明らかに間違った教義なども採用しているのに
「ローマ・カトリック教会だけが正当な教会」とキリスト教他派を否定し,迫害しました。

■ユグノー(新教徒)への迫害

(フランソワ・デュボワ(1529-1584)作。
ローザンヌ美術館所蔵。)
カトリック教徒による1572年のサン・バルテルミの虐殺に際し、教皇グレゴリウス13世はプロテスタント虐殺を指揮した国王シャルル9世に黄金のバラを贈りました。
また神への感謝を捧げるためにテ・デウムを唱歌するよう命じ,この慣例は数年後まで続きました。

グレゴリウス13世が虐殺を記念して発行
させたメダル。
左:グレゴリウス13世。
右:「ユグノー撲滅1577年」(Ugonottorum strages 1577)の標語と共に、虐殺されたユグノーと十字架と剣を掲げた天使。

虐殺を記念してグレゴリウス13世がジョルジョ・ヴァザーリに描かせたフレスコ画。1572-73年。

(エル・エスコリアル修道院。クリックで拡大)
また、広大な植民地から強奪した金銀財宝で豪勢なエル・エスコリアル修道院を建設した
スペイン王フェリペ 2世は、虐殺の報告を受けて、生涯でただ一度の笑みをこぼしたとされます。

■ワルドー派への迫害
ワルドー派(ヴァルド派)は、金まみれの腐敗したローマカトリックへの批判から,清貧を追求し、禁欲的な生活をテーマとし、信徒による巡回説教、聖書の(ラテン語からの)翻訳を特徴としました。
その為,教皇から異端宣告を受け、迫害されることになり,1655年ピエモンテにおいてサヴォイア公国王カルロ・エマヌエーレ2世により虐殺されました。

このローマ・カトリックによるワルドー派虐殺に対し、『失楽園』の作者ジョン・ミルトンは追悼の14行詩
『ピエモンテの虐殺(On the Late Massacre in Piedmont)』を書き、1668年にはサミュエル・モーランドは『ピエモンテ渓谷における福音主義教会の歴史(History of the Evangelical Churches in the Valleys of Piedmont)』を書いて批判しています。

■ヤン・フスへの迫害
1412年、教皇ヨハネス23世の免罪符を非難したヤン・フスの論文で目覚めたチェコの民衆。が、3人の下層階級出身の民衆が、免罪符販売の為に来た説教者をはっきりと否定し、免罪符を欺瞞と言った為に斬首されてしまいました。
が,それでもフス派の拡大は止まらず、3人の対立教皇(ベネディクトゥス13世、グレゴリウス12世、ヨハネス23世)を頂いたカトリック側はフスを逮捕します。
1415年、自説を撤回しカトリックの教義を受けいれれば助命するとの勧めを拒否したフスは、「ドラゴン騎士団」の創設者である神聖ローマ皇帝ジギスムントに引き渡され、 絞首刑ののち火刑に処されました。

以下も参考に
真実の求道者ヤン・フス

■サヴォナローラへの迫害
元寇を予言した日蓮のようにフランスの侵攻を予言し、かのミケランジェロにも影響を与えたサボナローラ。

ローマカトリックを批判した為1497年に教皇アレクサンデル6世から破門されました。


左から息子のチェーザレ、娘のルクレツィア、
教皇アレクサンデル6世(ジョン・コリア作
『チェーザレ・ボルジアと共にする一杯のワイン』(イプスウィッチ美術館所蔵)
1498年、サヴォナローラは、教皇アレクサンデル6世の意による裁判で絞首刑の後、さらに火刑に処されました。

■ウィリアム・ティンダル
聖書をギリシャ語・ヘブライ語原典から初めて英語に翻訳したイギリス人。
カトリックによる宗教改革への弾圧でイギリスからヨーロッパへと逃亡しながら聖書翻訳を続けます。
が,1536年に神聖ローマ帝国の官憲に捕えられ、異端の罪で焚刑(ふんけい=火炙りの刑)に処されました。

処刑されるウィリアム・ティンダル。

こちらも参考に
「第三章 聖書を翻訳した人たち」
ウィリアム・ティンダル―ある聖書翻訳者の生涯

■ミシェル・セルヴェ
三位一体説を批判したため、カトリック・プロテスタントの双方から異端とされました。
カトリックによって投獄され、すぐにしましたが、欠席裁判で有罪の判決が下されました。
各地を転々とした後、逃亡中に立ち寄ったジュネーヴでプロテスタントのカルヴァンの手の者によって逮捕、告発され、1553年ジュネーブ市議会によって火刑に処せられました。

左上に処刑の場面。
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