tacodayoのブログ

ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

隠された歴史4

再び
tacodayoのブログさんのサイトより
復活。

以下は
失われたアイデンティティ
からの引用です。

まさか、それなら日本古来の「神道」(Shintoism)はどうなるのか?そう思われている方もいるでしょう。しかし、神道にもキリスト教の教えが入っているのです。例えば、神道の教える「三社託宣(さんしゃたくせん)」は、真ん中に「天照大神」、左に「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」、右に「春日明神(かすがみょうじん)」となっています。
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これは明らかにキリスト教の「三位一体」(Trinity:父と子と聖霊は一体である。タコ注:実際は三位三体が正しい)の教えです。
また、ザビエルが驚いた真言宗の「大日如来(だいにちにょらい)」は「法身仏(ほうしんぶつ)」といい、宇宙の真理、中心にいます。しかし、仏はこれだけではありません。「阿弥陀仏(あみだぶつ)」という悟りをひらいた仏がいます。さらに「応身仏(おうしんぶつ)」といって、この世に現れた仏がいます。この「応身仏」はブッダなのですが、この3つは全て「仏さま」なのです。この概念を「三身即一(さんしんそくいつ)」と言いますが、これも明らかにキリスト教の三位一体の教えでしょう。
こうした三位一体の思想は、もともと仏教にも儒教にも無い考え方です。
(中略)
□外から日本を見なければ本当のことはわからない
私がこうしたことを知ったのは、父によるところも大きいのですが、日本や世界の景教研究家の立派な業績があるからです。日本の景教については、エリザベス・A・ゴードン女子(1851~1925年)というイギリス人の景教研究家が詳しく本に書いています。
また日本の景教研究の専門家である早稲田大学の故・佐伯好朗教授や京都大学の故・池田栄名誉教授も本に書いています。私と父は、これらの先達の業績を参考にしながら、これまで日本各地を回り、こうした事実を一つ一つ確かめました。高野山に出かけたのもそのためです。
(中略)
□「位牌」「戒名」は仏教の習慣ではない
実は、日本人が日頃、仏教の習慣だと信じ込んでいるものの中にも、キリスト教は入り込んでいるのです。その最大の例をあげるなら、それは、死者を弔う際に用いられる「位牌」です。
日本の仏教では、人が亡くなった時、その戒名と日付を書いた位牌を用います。故・佐伯好郎・早稲田大学教授によれば、この風習は、もともと景教のものでした。
景教徒は、死者を弔う際に、亡くなった人の洗礼名と日付を書いた二つ折りの位牌を用いたのです。
更に「戒名」というもの自体が景教の影響だとも指摘されています。何故なら、インド仏教には「戒名」というようなものが無いからです。タイや、スリランカ、ミャンマー、カンボジア、ベトナム、中国、韓国などにおいても、戒名の風習はありません。
これは、実は日本の仏教界の発明なのです。
では何故、日本の仏教だけが、この景教の習慣を取り入れたのでしょう?おそらくは、日本に来た景教徒の誰かがやったので、あっという間に広まったのでしょう。何故なら、戒名は無料だったからです。しかも、生きている者がもらうものだからです。
その昔、日本でも、戒名は生きている者だけがもらっていました。しかも、戒名は、仏弟子となって受戒を済ませた人たちだけがもらえたのです。ところが今は、死んだ者のために、遺族が代金を払って買うというシステムになってしまっています。
これは、日本の仏教がいわゆる「葬式仏教」と呼ばれるものに変質したためでしょう。戒名は、死んだ者のために遺族が高い金額を払って手に入れるものになってしまったのです。
(中略)
□景教は信教の自由を認めた
西洋に比べて東方世界が最も良かった点は、この地域が寛容と自由がある世界だったと言うことです。中国の景教に代表される東方キリスト教は、9世紀から13世紀にかけて、その絶頂期を迎えました。 
しかし、そうなっても、この世界は宗教的寛容(religious tolerance)に満ちあふれ、キリスト教(や他の宗教)を禁じることは無かったのです。「信教の自由」(religious freedom)を認めたのです。
前述したモンゴル帝国もそうでしたが、中国においては、唐帝国がその典型でした。例えば7世紀に、太宗皇帝(Emperor Taizong:在位627~649年)は、景教の経典を読んで感激し、国民にも景教を勧めて、「景教の伝道が自由になされるようにせよ」と言いましたが、その信仰を国民に強要することはありませんでした。彼の下で、またその後の時代にも、国民の信教の自由は保障されていたのです。
また、1259年に、イル・ハーン国(Ilkhan Kingdom)初代の王となったフレグ(ジンギス・ハーンの孫)は、自らは景教の影響を強く受けた人ですが、「国民の全ては信教の自由を有する」と宣言しました。そしてあらゆる宗教を保護しました。
そしてもう一つ特筆すべきことは、東方キリスト教が政治権力を取ろうとしなかったことです。
京都大学の故・池田栄名誉教授は、景教を研究した論文の中で、こう述べています。
「景教の教会は・・・ローマ・カトリックとは異なり、いまだ一度たりとも政権を主張したこと無く、皇帝(カイザル)のものはカイザルにゆだね、常に教権のみを有してきた。」
しかしこれは例外で、他の宗教の多くはそうではありません。例えばイスラム教の国々に行くと、「国民の99%はイスラム教徒」というところが沢山あります。ところが、では国民は本当に心からイスラム教を信じているかというと、必ずしもそうではないのです。
そういう法律になっていて、そういう体制になっているから戒律は一応守っています。つまり、罰が怖いから信じているだけなのです。信教の自由があって信じているわけではないのです。
(中略)
つまり、イスラム教やヒンズー教などは、権力体制と一体になっている宗教といえるのです。規制を作って、これを守らないと罰せられるといって形だけの宗教人間を作り出しています。
ヨーロッパのキリスト教国でも、
宗教裁判所が置かれた中世の教会などは、
同じようなシステムが機能していました。
信仰が強制になっていたのです。
これは一種の恐怖政治Red Terror(rule by fear)です。


しかし、東方キリスト教は違っていました。(タコ注:しかし十字架をありがたがっていてはいけません \(^^)/)
いくら、規則を作って縛ったところで、人間は信者になりません。イエスはほとんど規則を作りませんでした。これがキリスト教の原点です。
(中略)
□海を越えてやって来た謎の大集団
日本にキリスト教を伝えた秦氏が渡来したのは、古文書から推察すると、199年(または198年)となります。それは『新撰姓氏録』に、第14代天皇・仲哀天皇の第8年に「弓月(クンユエKung-Yueh)」の「巧満王」が日本の朝廷を公式訪問したと記されているからです。しかし、この「仲哀天皇の第8年」は、伝統的な理解では、199年(または198年)に当たりますが、実は4世紀後半のようです。今日の歴史学者の多くは、仲哀天皇の時代をそこに置くのが妥当としているからです。また、一説には356年とされます。
ともかく、日本の天皇の歴史で、実在がほぼ確かとされるのは。「倭の五王」の1人とされる第15代天皇・応神天皇からです。そして、応神天皇の治世の4世紀後半から5世紀には、阿知使主(あちのおみ:漢氏の祖)や王仁(わに:百済出身)ら渡来人がたくさんやって来たとされています。(中略)ですから、いずれにしてもこの時代に日本に原始キリスト教が入っていたことになります。
ただし、記録に残っていないことも考えれば、原始キリスト教はもっと早く日本に入っていたと思えます。私はむしろ、先の年代、2世紀には原始キリスト教徒は日本にまで到達していたと考えています。

仏教も、歴史の教科書では538年となっていますが、実際にはもっと早く入っていたでしょう。いずれにしても重要なのは、仏教もキリスト教も非常に早い時代に日本に伝来していたということです。そして、現代の日本人が思っている以上に、キリスト教は古代の日本に大きな影響を与えたということです。いや日本という国はキリスト教によって作られたといってもいいのです。

こう書けば、「日本は聖徳太子の時代に仏教立国したのだ」と、かならず反論が帰ってきます。
しかし、それは今に至るまで、日本人がマインドコントロールされた「表の歴史」であって、本当の歴史は別に存在するのです。いわば封印された「隠された歴史」なのです。
では、なぜこの本当の歴史が封印されてしまったのか?
その鍵を握るのが秦一族です。

応神天皇の第14年、弓月国の巧満王の子(融通王)が秦一族を率いて、日本に渡来します(タコ注:先の巧満王の訪朝から15年後?)。そしてその後の雄略天皇の時代に、その人口を数えてみると、彼らは「1万8670人」いたとされます(新撰姓氏録)。なんと約2万人です。当時の2万人といえば、それは大集団です。民族大移動といってもいいでしょう。彼らははるか弓月の国からやってきて、日本に帰化したのです。部族ごと、やって来て日本人となったわけです。これは『日本書紀』や中国の歴史書にも記述があるので、ほぼ事実でしょう。
(中略)
渡来後、秦氏が興したことは数え切れませんが、例えば京都の「西陣織り」などもその一つです。「和紙」をつくったのも秦氏とされています。京都では難しかった水利工事ができたのも、秦氏の技術があったからでした。秦氏は文化の面でも大きく貢献します。秦久麻(はたのくまき)、秦連稲村(はたのむらじいなむら)、秦稲守(はたのいなもり)、秦堅魚(はたのかたうお)など(タコ注:いずれも東大寺の厨子の彩色を担当した?)の有名な絵師は、秦氏の出身です。
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(秦久麻が監修した「天寿国曼荼羅繍帳(まんだらしゅうちょう)」)
『万葉集』にはたくさんの秦一族が登場します。秦忌寸八千鶴(はたのいみきやちずる)、秦田麻呂(はたのたまろ)、秦許遍麻呂(はたのこへまろ)などがそうです。日本の皇室の音楽である雅楽の基礎をつくったのも秦氏でした。
(中略)
私が秦氏に興味を持ったのは、アメリカ留学から帰国してからでしたが、その後、日本でその足跡を調べ、「キリスト教は日本に遅くとも、今から1700年前ないし1800年前には入っていた。」と結論づけました。そして、それを原稿に書くと、当時、私が出そうとしていた本の編集担当者に、「この部分は、本には入れられませんねえ。歴史的根拠が無いですから。」といわれたことがありました。彼もやはりマインドコントロールされていたのです。多くの日本人と同じような既成観念が、頭の中にこびりついていたのです。
しかし、私が食い下がると、編集者は「そこまで言うのでしたら、江上波男先生に聞いてみましょう。江上先生は、私が東大で学んでいたときの先生でしたから。」と言って、江上教授に電話を入れてくれたのです。その電話で、江上教授が言われたことは、次のようなことでした。
「ケン・ジョセフの考えは、私の考えとは若干の違いがある。しかし、否定は出来ない。だから彼にぜひ伝えて欲しい。2世紀に日本に入ってきたキリスト教は景教ではなく、原始キリスト教です。これが直接入ってきたのです。」
これは、その後の私にとって大きなメッセージとなりました。なぜなら、それまでの私は、景教、原始キリスト教、東方キリスト教を混同していたので、その整理がつき、秦氏についてのリサーチもはかどったからです。そして、この時から、私は日本人にどうしても自分たちの歴史を見なおしてほしいと思うようになったのです。
そんな考えでしたから、京都のある大学に講師として呼ばれたとき、私は学生達にこんな宿題を出しました。
「キリスト教がいつ日本に入ってきたか、それを調べてほしい。」
すると学生達は、「なんでそんなわかりきったことを」という顔をしましたが、私が、「日本には本当に信憑性のある歴史はほとんどない」と言うと、熱心に調べだしたのです。その結果、学生たちの出した答えは、こうでした。
「キリストの使徒たちは、インドには西暦52年に、中国には西暦64年には入っていたという記録がありました。また、当時は、物にしても人間にしても、中近東と東アジアの間には多様な交流があったので、そこから考えると、キリスト教が日本に入るのに、成立から1500年もかかったというのはどう考えてもおかしいと思います。2世紀に入ったというのでさ、遅すぎるくらいだと思います。当時は記録などありませんから、1世紀のうち、例えば西暦70年前後に日本にキリスト教が入っていたと考えても少しもおかしくないと思います。」
この西暦70年前後と言うのは、余りに早すぎると思う人もいるかもしれません。しかし、
2002年8月2日に『人民日報』が伝えたところによると、南京で西暦86年に建てられた原始キリスト教の遺跡が発見されたのです。しかも、そこにはイエスの物語が書かれており、中国政府もこれを認定しています。
つまり、どんなことでも既成観念にとらわれていてはいけないのです。特に日本の教育は、ただモノを教えるだけの『詰め込み教育』ですから、子供たちの頭の中は既成観念で一杯になります(タコ注:その結果が今回の福島原発事故を誘引しましたね)。
(中略)
それでは、既成観念を捨てて、秦氏の足跡を追ってみましょう。
『新撰姓氏録』によれば、約2万人の秦氏の人々は、「127県」―すなわち127のグループから成っていました。ただし『日本書紀』では120県となっています。そこで、秦氏の祖国・クンユエが一時期属していたペルシャ帝国を調べると、帝国はなんと127の州からなっていました。旧約聖書『エステル記』第1章1節に、こういう記述があります。
「アシュハロス(ペルシャの王)は、ホド(インドの西境、インダス川付近)からクシュ(エチオピア)まで127州を治めていた。」
つまり、このペルシャ帝国の区分けにならって、秦氏が「127」の区分けを用いたとも考えられるのです。
(中略)
□真言宗は「新約聖書」、天台宗は「旧約聖書」の教え
空海の出身地、讃岐(香川県)は、実は秦氏の人々が多く住んでいるところでした。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(758~827)も、もとの姓を秦氏と言ったのです。
(中略)
空海と一緒に、後の天台宗の開祖・最澄(さいちょう)も唐に渡りました。そして、最澄は「旧約聖書」を持ち帰り、一方の空海は「新約聖書」を持ち帰ったそうです。ところが帰国以降、この2人は仲たがいし、別々の宗派を開きました。つまり2人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を分けて持ち帰った。これが天台宗と真言宗の違いだ―これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明朗先生も、これについて長年研究していて、同じようなことをおっしゃっていました。
(中略)
彼は景教徒の大物である「景浄(けいじょう)」にも会ったといわれています。この景浄は、大秦寺の「大秦景教流行中国碑」の碑文を書いた景教僧です。空海は他の景教僧とも、長時間にわたってあったことが知られています。
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(大秦景教流行中国碑)
(中略)

□西本願寺にも景教の経典が保管されている
時代は下って、鎌倉時代、鎌倉仏教といえば、日本人なら、第一に親鸞(しんらん1173~1262年)を思い浮かべるでしょう。
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京都の西本願寺といえば、その親鸞が開いた「浄土真宗」の本山です。
その宝物(ほうもつ)中には『世尊布施論(せそんふせろん)』(※)があります。
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しかしこれも、仏教の経典ではありません。中国で7世紀に景教徒によって漢語に翻訳された景教の経典なのです。
この「世尊(せそん)」は釈迦ではなく、イエスです。内容も、イエスの「山上の垂訓(すいくん)」(Sermon on Mount:『マタイによる福音書』第5~7章)に始まり、イエスの生涯、教え、キリスト教の救い等について述べています。たとえば、
「空の鳥を見よ。種まきもせず、刈り入れもしない。・・・あなた方は食べ物や住まいのことで、心を煩(わずら)わせ過ぎてはならない。・・・求めよ、そうすれば与えられる。叩け、そうすれば開かれる。誰でも求める者に神は与え、誰でも叩く者に彼は(扉を)開くのだ。」
など、よく知られたイエスの教えもそこに書かれています。私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。
(中略)
「・・・古くて痛みやすい状態なので、普通はお見せしていません。でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています。」
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本に載っているものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も呼んで学んだということは、私にとって感慨深いものでした。

※東本願寺の至宝の1つは「馬太傳」であり、新約聖書『マタイ伝』の漢(中国語)訳です。まぁ、常識的に考えるなら、他の宗派の経典を研究のために収集しないほうが宗教家としては怠慢であり、同時期の資料を持っていないほうがおかしい訳ですが…(⌒‐⌒)

□親鸞の「浄土真宗」の教えもキリスト教の教えである。
親鸞という人は「称名(しょうみょう)念仏」の信仰、つまり「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏(ねんぶつ)を広めた人です。「南無阿弥陀仏」とは、「私は阿弥陀仏(あみだぶつ)に帰依(きえ)します。」「阿弥陀仏を信じます。」というような意味です。
阿弥陀仏の名前を心に念じ、唱えるなら救われるというものですが、こうした仏の“名を呼んだら救われる”という考えは、もともとの原始仏教(primitive Buddhism)には無かったものです。実は“名を呼んだら救われる”という考えは、もともとキリスト教のものなのです。聖書に、「主の御名を呼び求める者は誰でも救われる。」(『使徒行伝』2:21)と記されています。
キリスト教では、イエスの救いを信じて、その御名を呼び求めるものは誰でも救われると教えるのです。また、阿弥陀信仰自体、原始仏教には無かったものでした。仏教史学の権威アルティ博士は、「阿弥陀仏の教義は・・・インドで作られたものではない。中国仏教は、カシミールやネパールから伝来したもので、阿弥陀仏は、当時この地方に影響を与えたペルシャのゾロアスター(拝火)教と、キリスト教に起因する。」と述べています。
阿弥陀の名は、「無量光、無量寿」を意味するサンスクリット語「アミターバー、アミターユース」から来たものです。
アミダは「無量光、無量寿」、すなわち無限の光と永遠の命の仏といわれているわけですが、これは『ヨハネによる福音書』第1章5節の「この方に命があった。この命は人の光であった。」という言葉からとった思想であると、指摘されています。
このように、親鸞の信じた「阿弥陀仏」も、いわばキリスト教思想を仏教に取り組んだものでした。
(中略)
「修行(行い)による救い」ではなく「信心(信仰)による救い」を説いた親鸞の教えも、もとはといえばキリスト教から来ていたのです。
(中略)
かつて16世紀に、ドイツの宗教改革者マルティン・ルター(1483~1546年)は、聖書の「信仰義認」“salvation by faith”(人は信仰によって義と認められる)の真理を発見し、それを人々に説きました。彼は「行いによる救い」ではなく「信仰による救い」を説きました。宗教学者は、このルターと日本の親鸞を、よく比較して語ります。
実はルターが「信仰による救い」を説いてから数十年後のこと、フランシスコ・ザビエルが日本にやってきました。
そこでザビエルは日本の浄土真宗の人々を見ました。そして、その教えが余りにも「ルターの教え」に似ているので驚いたと記録にあります。
(タコ注 ザビエルはカトリック、ルターはプロテスタント。)
ちなみに、「大秦景教流行中国碑」において、景教は「真宗」とも呼ばれています。これと、親鸞が開いた宗派が浄土「真宗」と呼ばれていることは偶然の一致とは言い難いのです。
冨山昌徳は『日本史の中の仏教と景教』の中で、仏教僧・法然(ほうねん1133~1212年)の伝記と、聖書との関係を指摘しています。法然伝の根本資料となった古書(『夢感聖相記(むかんしょうそうき)』)の中には、聖書に記された、イエスの「山上の変貌(へんぼう)」(『マタイによる福音書』第17章)の記事の内容が同じ順序で転用されているというのです。そして詳しく解説しています。
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(法然。原画ではなく複製とされる?)

ちなみに法然の母は、秦氏でした。親鸞の先生が法然です。そして、法然は中国の僧・善導(613~681年)の著作を通して信仰の道に入った人です。
善導は、中国・唐の時代に浄土教を大成した僧侶でした。善導は「修行(行い)による救い」“salvation through ascentic training”ではなく「阿弥陀仏への信仰による救い」”faith in amida”を説いた人です。
ところが、彼がそれを説き始めたのは、ちょうど景教徒たちが中国に来て「行いによる救い」ではなく「救い主イエスへの信仰による救い」を熱心に説き始めたときでした。
つまりここに、景教徒→善導→法然→親鸞という、一連のつながりを見ることが出来ます。

□アメリカの東方キリスト教会で感じたこと
私は、アメリカで初めて東方アッシリア教会(Assyrian Church of the East)の教会に行ったとき、不思議な感覚に襲われたことがあります。ここに集まっている人々はアッシリア人がほとんどで、礼拝は、祈祷も説教もアラム語で行われます。だから、まさしくキリスト教徒のためのキリスト教徒の教会です(タコ注:イエスも当時のユダヤ人もアラム語を話していました)。
しかし、私が感じたのは「なんだか日本の仏教のお寺にいるみたいな感じだな。」ということだったのです。
例えば、仏教の法事では、会衆も、お坊さんも皆、前を向いています。それと同じように、この教会でも、祭司や会衆は皆、前を向いています。彼らの前には一種の祭壇があって、そこは幕で覆われています(タコ注:カトリックでは神父、プロテスタントでは牧師、アッシリア教会では祭司)。
また、普通プロテスタントなどの教会では、牧師の説教が礼拝時間の大半を占めます。しかし、東方キリスト教会のほとんどの教会では、祭司が、お坊さんがする“読経”(どきょう)のようなことを延々と行うのです。1時間でも2時間でも行います。そして、その“読経”が独特の節回しで、聞いていると、まるでお坊さんの読経を聞いているのかと、錯覚してしまうほどです。
更に、仏教のお寺に行くと、線香の煙と臭いが、お堂の中に満ちています。それと同じように、東方キリスト教会でも、香炉から立ち上がる煙と臭いが会堂中に満ちていました。また香炉から立ち上がる煙を、人々は手で自分の身体にかけるようにします。それが祝福をもたらすからだといいます。
ちょうど仏教の寺で、人々が煙を自分の身体にかけているのと同じ風習です。
線香とか焼香の風習は、もともと仏教の風習と思うかもしれませんが、実はこれもキリスト教から来ています。原始仏教にはそうした風習はありませんでした。一方、インドや中国、日本にやって来た東方キリスト教徒たちは皆、香炉などによって、香を焚く風習を始めから持っていたのです。ユダヤ人も、礼拝のために香を焚く習慣を、モーゼの「幕屋」(神殿の原型)の時代から持っていました。
また、仏教の寺では、信者は手に数珠を持っています。それと同じく、私が行った東方アッシリア教会でも、信者は手に数珠を持っていました。数珠も、仏教の発明と思っている方も多いと思いますが、そうではありません。ローマ・カトリック信者も昔から数珠(ロザリオ)を使います。また東方キリスト教会でも、昔から数珠を使っていたのです。
一般に、仏教における数珠の発案者は、中国、隋・唐時代の僧、道綽(どうしゃく562~645)だったといわれています。しかし、これはちょうど中国に初めて景教が入った時代で、景教徒の風習であった数珠が、仏教徒にも取り入れられたものと思われます。
また東方キリスト教の教会では、ロウソクを立て、明かりを灯しています。祈りたい人はロウソクを買い、それをロウソク立てに立てて祈るのです。これも今の仏教と同じです。
日本のお盆に見られる景教の影響
日本の「お盆」は、先祖の霊魂をやすんじるための行事です。日本では、7月15日前後(あるいは月遅れの8月15日)に行われています。
お盆というと、日本人の多くは「純粋な仏教行事」だと思っていますが、仏教にはもともと「お盆」というような風習はありませんでした。サンスクリット語の仏教の経典に、お盆は出てきません。
お盆は「ウラボン」(盂蘭盆)の略です。
これはもともとペルシャ系のソクド語で、「死者の霊魂」を意味する「ウラバン」(urvan)から来ました。ソクド人には、家に祖霊を迎え、共に供え物の風味を味わうという祭りがありました。
また、景教徒(東方キリスト教)たちにも、先祖の霊魂の慰安を祈る風習がありました。「大秦景教流行中国碑」には、中国で景教徒たちは「日に7回、礼拝と賛美を捧げ」「生者と死者とに守りがあるよう」に神に祈ったと記されています。
景教徒は、ローマ・カトリックの言う「煉獄」(中途半端なクリスチャンが死後に行くという浄罪所)の教理を拒否しましたが、その一方で死者を大切にしました。煉獄は聖書に無い教えですから、当然、景教徒はそれを受け入れません。これは今日のプロテスタントと同じです。
(中略)
つまり、中国には、ソクド人や景教徒がやって来るまで、死者のために祈る盛大な行事としての「お盆」の風習はありませんでした。インド仏教にも中国仏教にも、当初、お盆や死者のための供養の行事は無かったのです。
しかし、中国は祖先というものをとても大切にするところです。
したがって、先祖を大切にする景教徒たちの態度は、中国社会で大変に歓迎され、この行事が取り入れられ、非常な勢いで人々の間に広まったのです。
一方、仏教は、「先祖や親を大切にしない教え」として、儒教徒などから攻撃を受けていました。
仏教は出家主義ですし、もともと親を捨てないと救わないという教えです。また、先祖に執着心を持っていては修行出来ないとする考えですから、先祖や親への孝養を説く儒教の人たちから、散々に非難を受けていたのです。
(タコ注:これがため朝鮮では、李氏朝鮮時代に儒教が国教となると、仏教は徹底的に弾圧されました。全国に1万以上もあった寺院は禅宗18寺院・教宗18寺院の計36寺院を残し廃寺となります。ところが韓国ではこれは日帝の仕業だと教えています。)
それで、仏教でも先祖や親を大切にする態度を見せる必要がありました。中国の仏教僧たちは、景教徒たちに対抗し、『彼らに負けないだけの死者を弔う行事を仏教でも持とう』と計画しました。ソクド人とインド人の混血として生まれ、長安の都で景教教会のすぐ近くに住んでいた密教僧・不空金剛(アモガ・ヴァジラ)は、766年に、仏教徒らを集めて盛大な「死者のための供養祭」を行いました。
これは7月15日のことです。何故なら、この日は道教の「中元」の日でもあったからです(タコ注:ユダヤ暦7月15日の「仮庵(かりいお)の祭り」でもあります)。
このようにして、中国における「お盆」の風習が定着し、唐の時代に空海や最澄らを通して、日本にも輸入されました。
(中略)
□ザビエルが説いたのは新しい神ではなかった
ところで、空海が説いた仏は「大日如来」(だいにちにょらいMahavirocana)でした。
日本の仏教では、3種類の仏が考えられています。
1.まず大日如来(大ビルシャナ仏)のように、宇宙(universe)の真ん中に座し、真理(truth)そのものとされるような仏は「法身仏」(ほっしんぶつdharma-kaaya)と呼ばれています。
2.また阿弥陀仏(Amitabha Buddha)のように形なき法(真理)(embody)を具現化し法身仏をもっと身近にしたような仏を「報身仏(ほうじんぶつ)」と呼んでいます。
3.更に歴史上に現れた釈迦のような仏を「応身仏(おうじんぶつ)」と呼んでいます。
そして仏教とは、これらの仏は3つの異なった仏ということではなく、実は全て一体なのだと述べるようになりました。これを「一身即三身(いっしんそくさんしん)」または「三身即一(さんじんそくいつ)」といいます。もちろんこれは、原始仏教に無かった考え方です。
実は中国で発見された景教の経典を読むと、神の三位一体のことを、漢語で「三一妙身」と記しています。景教の「三一妙身」と、日本仏教の「三身即一」は同じものなのです。
実際内容的に見ても、法身仏はキリスト教で言えば天の父なる神、報身仏は永遠のキリスト(タコ注 または聖霊)、応身仏は歴史上のキリストによく似ています。
つまり、「法・報・応の三身が一つである」という仏教の主張は、キリスト教の「神とキリスト(と聖霊)の一体論」の仏教版、あるいは仏教的に衣替えしたものなのです。
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先に述べたように、
フランシスコ・ザビエル弥次郎から、日本人の宗教について色々聞きました。日本では3種類の仏が信仰されていて、それらの3つの仏は一体とされている。と、弥次郎はザビエルに言いました(イエズス会宣教師ランキロットの手紙。1548年)。
ザビエルは、弥次郎から密教の儀式などについても色々聞いて、どうも日本の仏教はキリスト教に似ている、あるいはキリスト教が混入していると感じました。
日本仏教の「大日」の教えは、キリスト教の「神」とほぼ同じだからです。それで弥次郎は、デウス(神:Deus)を大日と訳しました。ザビエルも「神」を説くとき、「大日」と言いました。
そのため、当初ザビエルの説いた教えは、仏教の別派と間違われたくらいです。しかし、ザビエルは、こういって人々に彼の信じる神を説きました。
「私は新しい神様を伝えに来たのではありません。皆さんが信じている大日様の本当の姿を話に来たのです。」
(中略)
□キリシタンはなぜいっぺんに増えたのか?
ザビエルが16世紀に日本に来たとき、非常に多くの人々が、瞬く間にクリスチャンになりました。なぜこんなにも多くの人たちがクリスチャンになったのでしょうか?
もうその応えはお分かりでしょう。
今日の日本では、クリスチャン人口は1%未満と言われています、日本人はなかなかクリスチャンにはなりません。
(タコ注:
怪しい教会が多いから下手にクリスチャンになったらいけませんよ。(^^; 『私の民よ。彼女の罪から離れさって、その罪にあずからないようにし、その災害にまきこまれないようにせよ。彼女の罪は積り積って天にまで達しており、神はその不義の行いを覚えておられる。』黙示録18:4~5)
ところが、当時の日本人は、福音を聞くとすぐさまクリスチャンになりました。
これは、今まで見てきたように、日本人には昔からキリスト教的な土壌があったからです。イヤ、当初から、日本人は隠れキリシタンだったからです。
だからザビエルの話を聞いたときに、彼らのうちにくすぶっていたものが燃え上がって信仰となりました。
ザビエルが日本に居たときに記した手紙を読むと、彼がイエスの受難について日本人に話すと、日本人たちは誰もが涙を流し、深く感動しながら聞き入ったといいます。
夜も昼も、人々は彼の下にやってきて、話を聞こうとしました。それで、食べたり、充分な睡眠をとったりする暇も無いほどだったと、彼は記しています(タコ注:とことん疲れはてて日本を離れたようです)。それはザビエルだけでなく、他の宣教師達もそうだったのです。こんなに福音をすばやく吸収する民族は他にいない、とザビエルは書いています。ザビエルは、「この国はまるで福音の説教を既に聞いたところのような感がある」とも手紙に書いています。
(中略)
ザビエルが日本人に福音を語り始めてから、数十年たって、日本の各地には既に数十万人――ある人の研究によれ場、約70万人のキリシタンがいました。
しかし、これは登録されたキリシタンの数であって、もし登録されていないキリシタンたちも含めれば、約300万人もいたであろうと、東大の故・
姉崎正治教授(1873~1947)は見積もりました。このことは、姉崎氏の著書『切支丹宗門の迫害と潜伏』の中に書かれています。当時の日本の総人口は1200万人と言われていますから、これは、なんと総人口の約25%に相当します。
そして、続くキリシタン迫害時代に、約100万人が殉教したと言われています。また、約100万人が隠れキリシタンとなりました。残り約100万人は海外に逃れたであろうと言われています。海外に逃れた人々は、例えばマカオに行きました。
(中略)
また、先日、英語の雑誌を読んでいたら、はるか太平洋を越えてメキシコ(当時はスペインの植民地)にまで渡った驚くべきキリシタンたちの物語が載っていました。
(中略)
一方、北海道に移住したキリシタンたちも、少なくなかったようです。
(中略)
□イエズス会の宣教には大きな欠点があった
それにしても、何故、日本ではこんなキリスト教の大迫害が起こったのでしょうか?
それはザビエルらのカトリックの布教活動に大きな欠点があったからです。
かつて原始キリスト教徒だった秦氏や、またアッシリア方面から来た景教徒らは、母国とのつながりを持たず、自活しながら日本までやってきた人々でした。母国からの財政援助や支援は彼らにはありませんでした。むしろ、彼らは自由と安住の地を求めて、この日本にやって来たのです。
しかし、カトリック・イエズス会の宣教活動はそうではありませんでした。ザビエルは、母国ポルトガルの王室からの財政援助、およびアジアにおける布教許可権を得ていました。またその布教活動は、ポルトガルやスペインの
アジア植民地政策と密接にリンクしていました。
彼らのバックには,

植民地を求める西洋国家の政策があったのです。
(タコ注:黙示録第12章の竜=悪魔=レプティリアンの指令。)
イエズス会の宣教は、景教徒たちの宣教とは大きく異なり、非常に狭量な面がありました。
イエズス会の人たちは、
インドや中国で
景教徒たちに出会っていました。
しかし、
自分達の信仰と異なるといって、
彼らを「異端」と呼び、

(タコ注 ローマ・カトリックこそ黙示録の大姦婦であり悪魔=堕天使の宗教であるにもかかわらず)
景教徒たちすら
迫害したのです。
そして、
ローマ・カトリックへの
改宗を迫ったのです。


以上引用終わり。

『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、私が見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来たれ」と呼ぶのを聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が出てきた。そしてそれに乗っている者は、弓を手に持っており、また冠を与えられて、勝利の上になお勝利を得ようとして出かけた。』(新約聖書「ヨハネの黙示録」第6章より)

“白い馬”とは、“白人による植民地支配”をいいます。
“弓を手に持って”とは、圧倒的な軍事力でどんどん植民地を広げて行ったことを指します。
“また冠を与えられて”とは、“キリストの名において”、スペイン、ポルトガルが教皇アレクサンデル6世の承認を得て、地球を勝手に2分して、世界中に進出し、それらがやがてオランダ、フランスの各王国から大英帝国に覇権が移った史実を指します。
“勝利の上になお勝利を得ようとして出かけた。”とはIFM(国際通貨基金)や中央銀行による
金融資本家による軍事力から経済力に代わった“第2の植民地支配”を指します。
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