tacodayoのブログ

ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

隠された歴史2

しかし、その検証の前に、まずはアジアにおけるキリスト教の歴史を見てみましょう。

以下は
失われたアイデンティティ
からの引用です。

アッシリア東方キリスト教会は、当初アッシリアからペルシャなどの地域でかなり栄えました。5世紀の歴史家ソクラテス(ギリシャの哲学者とは別人)の記述に、このような話があります。
「ペルシャの王が、ひどい頭痛で悩まされていました。ゾロアスター教の祭司が色々手を尽くしたのですが治りませんでした。ところがマルタというキリスト教徒が、祈りによって、たちどころにそれを癒してしまいました。」
それで、それ以降のペルシャの王はキリスト教徒を厚遇するようになったと言います。
実際、ペルシャ帝国は宗教には寛容でした。ペルシャには、東方キリスト教徒たちが発達させた素晴らしい教育制度や学校もありました。
東方キリスト教徒の中には、アッシリア人、アルメニア人、ペルシャ人、トルコ人などの、様々な人々がいましたが、彼らがシルクロードを行き来するたびに、キリスト教は西アジアから中国に至るほぼアジア全域に広がりました(タコ注:「…女は自分の場所である荒野に飛んで行くために、大きなわしの二つの翼を与えられた…」ヨハネの黙示録12:14)。
最盛期には、東方世界の27以上の大都市に東方キリスト教の教会があり、主教だけでも200人以上を数えたと言います。その中には、中国で大秦寺と呼ばれた景教の大教会もありました。
9世紀の終わりまでには、ウィグル人のほとんどがマニ教からキリスト教に改宗していました。ケレイト族、ナイマン族、オングート族、モンゴル族も、ほとんどがキリスト教徒になりました。
その頃のヨーロッパといえば、5世紀以降は、どんどん暗い時代になっていきます。いわゆる『暗黒の中世』の始まりです(タコ注:「…しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである。」ヨハネの黙示録12:12)。
教会は政治権力と結びついた為に腐敗堕落し、ヨーロッパのキリスト教は本来の活力を失っていくのです。
しかし、東方世界では、キリスト教徒達は生き生きと輝き、ダイナミックに宣教活動をくり広げていたのです。
例えば、ウィグルでは、キリスト教が国家全体を大きく変えました。宣教師達は、ウィグル人の為に文字をつくり、読み書きを教えて、教育制度までつくりました。
後にこの文字を、モンゴル人も輸入して使用するようになり、モンゴル人も読み書きが出来るようになったのです。
東方キリスト教会がいかに文化的に輝いていたかは、シルクロードの真ん中に行くと、よくわかります。
中央アジアの都市メルブには、東方キリスト教会の言語研究所があって、そこではアジアのほとんどの言語を研究し、聖書の翻訳を行っていました。
ウィグルで発見された当時の文書は、キリスト教の影響がいかに大きかったかを、次のように語っています。
「残忍な習慣に満ち、血塗られていたこの地は、今や菜食の地となった。虐殺の地は、慈善の土地となった。」

モンゴル帝国の繁栄をもたらしたキリスト教徒

キリスト教は、最大の世界帝国となったモンゴル帝国(元朝)でも栄えました。世界史上、空前絶後の大帝国を作った彼らも、中国に入った東方キリスト教、つまり景教を大事にしたのです。
(中略)
また、困った人、無料で食物や衣服を与える公共の福祉施設もつくりました。その為の費用は、羊毛や麻などの取引に課せられた「10分の1税」があてられました。
そして、モンゴルの皇帝は国民に対し、唯一の創造主なる神を信じるようにとの勧告を出したのです(※ただし、信仰の自由は保証されていました。タコ注:ローマカトリックとはエライ違いです)。
(中略)
これは、マルコ・ポーロの有名な『東方見聞録』に書かれている事です。
マルコ・ポーロは、またモンゴル支配下の中国、東シナ海の緒都市においても、多くの景教徒たちに出会った事を書いています。『東方見聞録』によれば、それらの地域に、キリスト教徒は約70万人は居たと言います。しかも、その内の一部の人々は、七百年も前から信仰を持っていると語ったというのです。
マルコ・ポーロは、中国に17年間もいたので、内モンゴル辺りに住んでいたオングート族のところにも行きました。そして、オングート族は景教国家を作っており、国民のほとんどは景教徒であったとも書いています。
(中略)
しかし、中国だけで驚かれてはいけません。キリスト教はフィリピンにも伝わっていたのです。東方キリスト教徒たちはフィリピン人に、教育によって国を作る事を教えました。
フィリピン古来の言葉はタガログ語です。1569年にスペイン人がこの地を占領しましたが、フィリピン人がヨーロッパ人以上に読み書きが出来る事に大変驚いたという記録があるのです。当時のフィリピンでは、なんと、読み書きが出来ない子供がゼロという町が大半だったのです。
ですから、欧米の心ある歴史家は、民衆教育、秩序ある政府、公平な政治、宗教的寛容というものは、西洋においてでは無く、まず東洋において初めて行われてたと述べているのです。
(中略)
さて,イエスの12使徒の一人トマスは、アッシリアでの宣教後、インドに行きました。インドで35年間働いたジョン・スチュワート宣教師が『景教徒の事業』という本を書いています。彼はトマスについて、次のように述べています。伝説によれば、トマスはAD52年、インド南西のマラバル海岸にあるマランカラ島に上陸しました。
トマスはその地で、王から庶民に至るまで、あらゆる階層の人々に信者を獲得しました。そして、非常に多くの人々に洗礼を授け、7つの教会を建て、2人の司祭を任命しました。
トマスはその後、インド東海岸のミラポール(今のチェンマイ)に行き、そこの王をはじめ民衆を改宗させます。また、一説によれば、トマスはその後、チベットを経て一時、中国に伝道に行ったとされます。今の北京辺りまで行き、信者をつくって教会を建てました。そして、再びインドに戻って伝道したというのです。
AD72年に、トマスはインドのミラポールで殉教したと伝えられています。その地は今でも「トマスの丘」と呼ばれています。
(中略)
かつてインドのラジェンドラ・プラサド大統領(1884~1963 タコ注:Rajendra Prasad マハトマ・ガ ンディーと共に非協力、不服従運動に参加。完全独立後にインド連邦初代大統領)は、こう語ったことがあります。
「ヨーロッパの国々がまだほとんどキリスト教国になっていない時代に、使徒トマスがインドにやって来て、多くの人々をキリスト教徒にしました。インドのキリスト教が、このようにヨーロッパよりも古く、深い起源を持つものであることは、私たちにとって本当に光栄なことであると思います。」
image(ラジェンドラ・プラサド大統)

トマス以外にも、12使徒の一人バルトロマイ(ナタナエル)もアッシリアなどの東方地域へ伝道に行きました。さらに、インドまで行ったともされています。
こうして6世紀までには東方キリスト教徒の教会はインド南西部のコチンにまで来ていました。

以上引用終わり。

~モンゴル帝国の宗教政策『フビラ イ・ハーン』~
国際社会の幻想①
モンゴル帝国Ⅳ~チンギスハーンの子孫~
スパイ マルコ・ポーロの正体

このように、アジア全域に拡がった景教=東方キリスト教にいたく感激した唐の第二代皇帝・太宗(たいそう、在位626~649)は、635年にキリスト教を事実上の国教としました。
以後、高宗、玄宗などの歴代皇帝に保護されたネウストリス派キリスト教の唐における隆盛は建中2年(781)に建立された「大秦景教流行中国碑」を見てもわかります。
「大秦景教流行中国碑拓本」
「大秦景教流行中国碑」
「漢民族とは何か 大秦景教流行中国碑」
 
そんな唐に“失われたアーク”の存在を知られたらどうなるかわかりません。
 
しかも、日本と百済遺民の連合軍は663年(天智2年)朝鮮半島の白村江(はくそんこう、現在の錦江近郊)で行われた、白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅連合軍に大敗しています。
唐・新羅の報復と侵攻を怖れた天智天皇は、九州大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海などの西日本各地に山城などを築き、また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備し、更に667年、都を大阪難波から内陸の近江京へ移して、唐・新羅連合軍の侵攻に備えました。
しかし、その一方では唐の進んだ中央集権体制などを取り入れる為にも唐との友好関係を強化しようと、669年には遣唐使を派遣しています。
その後、跡をついだ天武天皇は673年遣唐使を廃止しますが、702年以後は、文武天皇によって再開されます。
 
この様な動きを見れば、アークを守る為には唐と縁を切りたいところだが、そういう訳にもいかず、新羅のスパイによって情報が漏れてもいけないので、歴史をまるごと改ざんした。
というのが、「古代ユダヤと日本建国の秘密―消えた『ユダヤの秘宝』と四国・剣山の謎 」「邪馬台国はまちがいなく四国にあった」を著した大杉博氏の説です。
 
さて,このへんを整理する為に年表を作ってみました。

◆◆◆◆◆◆◆◆


635年、唐の皇帝、太宗(たいそう、在位626~649)、景教=東方キリスト教を事実上の国教に(※ただし仏教や回教=イスラム教などの他宗教の信仰の自由も保証)。

638年、唐で初めてキリスト教の寺が建立。波斯寺と称した(当初、キリスト教を波斯経教、つまりペルシャ人の宗教と呼んだため)。

645年(皇極4年)、中大兄皇子、中臣鎌足らと、女性である皇極(こうぎょく)天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺。
中大兄皇子、孝徳天皇を擁立する。

649年、高宗(こうそう)、唐の第三代皇帝に。

653年、中大兄皇子、奈良の都に遷ることを進言。が、孝徳天皇が認めなかった為、前の皇極天皇と孝徳帝の皇后(間人皇后)、皇弟を連れて飛鳥河辺行宮に帰った。公卿大夫・百官らが皆、中大兄に従って去ったので、天皇はこれを恨んで皇位を去りたいと思い、宮を山碕に造らせたが、やがて病気になる。

655年、孝徳天皇崩御。皇極天皇、史上初の重祚で斉明天皇に即位。

661年(天智1年)、斉明天皇が崩御。中大兄皇子、天皇として即位せず。

663年(天智2年)、白村江(はくすきのえ)の戦いで日本・百済連合軍、唐・新羅連合軍に大敗。

664年(天智3年)、中大兄皇子、唐・新羅が博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し博多に水城を築かせる。

665年、中大兄皇子、北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城を築かせる。

667年、中大兄皇子、都を唐の侵攻に備え内陸の近江大津京へ移す。

668年、中大兄皇子、天智天皇として即位。

669年,天智天皇、遣唐使を派遣。

671年、天智天皇崩御。

672年、壬申の乱。

673年(天武2年)、天武天皇即位。
遣唐使を廃止。
天武天皇の命で、稗田阿礼(ひえだのあれ)が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安万侶(おおのやすまろ)が書き記し、編纂する形で『古事記』作成開始。

679年(天武8年)、天武天皇は皇后(後の持統天皇)・草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・壁皇子・芝基皇子と吉野宮に行幸して盟約を結ぶ(吉野の会盟)。大秘密政策か?

686年、天武天皇崩御。

690年、女性である持統天皇即位。

697年(文武元年)、祖母・持統天皇から譲位されて文武(もんむ)天皇即位。

702年、文武天皇、遣唐使を再開。

711年(和銅4年)、『伏見稲荷神社』建立。

712年(和銅5年)、『古事記』成立。
玄宗(げんそう)、唐の第六代皇帝に。

720年(養老4年)、『日本書紀』成立。

745年(天宝4年)、キリスト教の発祥の地がペルシャではなく大秦国=ローマ帝国(の属領)であることを知り、玄宗皇帝の詔(みことのり)によって波斯寺を大秦寺と改める。

749年、大分県・宇佐八幡神宮から、初めて『神輿』が上京。(四国がヤマト発祥の地である事を隠す大秘密政策による“ウソ”のイベントを演出?)

756年、粛宗(しゅくそう)第七代皇帝に。

762年、代宗(だいそう)第11代皇帝に。

779年、徳宗(とくそう)第12代皇帝に。

781年(建中2年)「大秦景教流行中国碑」建立。

815年(弘仁6年)、『新撰姓氏録』嵯峨天皇の命により編纂。

840年(開成5年)武宗、唐の第18代皇帝に。

845年(会昌5年)、 「大秦景教流行中国碑」、会昌の廃仏(かいしょうのはいぶつ/えしょうのはぶつ)の際に、地下に埋没される。
※会昌の廃仏とは、道教に傾斜した武宗皇帝によって行われた唐の廃仏事件。寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は260,500人を数える。また、仏教と共に、長安を中心に盛んであった、マニ教・ゾロアスター教、景教(ネウストリス派キリスト教)も廃止された。

◆◆◆◆◆◆◆◆


何故、天照大神は女神にされたのか?

古事記では女性である推古天皇までを記しています(摂政は聖徳太子)。
日本初の女帝であると同時に、下半身が蛇でフリーメーソンのシンボルの“コンパスと定規”を持つ中国の三皇の一人「女 女咼(じょか)」除けば、東アジア初の女性君主です。

そして、後代の白村江の戦いの前後で三代・二人の女性天皇が即位している事に注意しましょう!!
(第33代 推古天皇♀ 在位 593年1月15日~628年4月15日
→舒明天皇♂→第35代 皇極天皇♀ 在位 642年2月19日~645年7月12日→♂→皇極天皇重祚して第37代 斉明天皇♀ 在位 655年2月14日 - 661年8月24日→天智天皇♂→弘文天皇♂→天武天皇♂→第41代 持統天皇♀ 在位690年2月14日~697年8月22日)

更に、日本書紀は同じく女性である持統天皇で終了していますね。

ちなみに、タレントの「ウノ」ちゃんの名前はこの持統天皇から来ているのは有名ですよね。

さて,吉野の会盟の天武天皇にとっては、女性が代々、日本国の支配者であると外国に印象づける事は聖櫃(せいひつ)=契約の箱を守る為に急務であったと考えられます。

が、実質的な紀記の作成者となった後の藤原不比等(ふじはらのふひと)にとっては重大な国内問題でした。
藤原不比等で検索してみると、色々面白い記事がヒットすると思いますが(^_^;)
以下は重要な情報ですので引用しますね(^_^;)

以下は推古天皇
からの引用です。

女性である推古天皇は、甥の厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。
コーネル大学のアジア研究者ジョーン・ピゴットは、このような女性天皇と男性摂政というとりあわせを、祭祀の責務と行政の責務のあいだの対位法的な関係をベースにした相補型の共同統治であると述べている。
シカゴ大学名誉教授で宗教史学者のジョゼフ・キタガワは、シャーマン的能力の持ち主で、血縁の男性を介して長期間の統治を行った受動的な女性最高権者である点が、邪馬台国の卑弥呼に似ていると述べている。

以上引用終わり。

そのまんま藤原不比等ですよね。

以下は
藤原不比等
からの引用です。

前述のごとく、不比等は実は鎌足の子ではなく、天智天皇の落胤(らくいん)との説がある。
『公卿補任』の不比等の項には「実は天智天皇の皇子と云々、内大臣大職冠鎌足の二男一名史、母は車持国子君の女、与志古娘也、車持夫人」とあり、『大鏡』では天智天皇が妊娠中の女御を鎌足に下げ渡す際、「生まれた子が男ならばそなたの子とし、女ならば朕のものとする」と言ったという伝説(実際に男子=不比等が生まれた)を伝える。
『帝王編年記』『尊卑分脈』などの記載も同様である。平安時代まではこの伝説はかなりの信憑性を持っていたと考えられ、『竹取物語』でかぐや姫に求婚する5人の貴公子の1人、車持皇子(くらもちのみこ)のモデルは不比等とされている。これは、母が車持氏出身の皇子、という意味の名である。
歴史学者の間では皇胤(こういん)説の支持は少ないが、もし本当に皇胤であったとすれば、後の異例とも言える不比等の出世が、天武天皇・持統天皇代に行われた皇親政治(天智・天武系皇子を朝廷の要職に就け、政治の中枢を担わせた形態)の延長として考えることも可能になるとして、支持する学者もいる。

以上引用終わり。

このへんを詳しく勉強すれば、天照大神が女性の女神へと強制的に変更させられた可能性を否定する事は大変難しいという事がわかります。

(⌒‐⌒)??よね。

この御落胤(ごらくいん)説を採ると持統天皇と藤原不比等は姉と弟になります。

そして、
乱暴者の

須佐之男命
(スサノオのみこと)
と天照大神の
関係も姉と弟です





コメント

カレンダー

03 2025/04 05
S M T W T F S
4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30

最新コメント

[07/03 NONAME]
[07/03 NONAME]
[11/09 その名前は既に使われております さん]
[11/09 その名前は既に使われております さん]
[11/09 その名前は既に使われております さん]

ブログ内検索

忍者カウンター