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tacodayoのブログ

ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

恩を仇で返すゴキブリ朝鮮ハエモドキ

-賄賂を使った逃避行-


私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。


(中略)


夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音のしさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこの頃には、する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。


この脱出コースは、関所があり、検査所があり、


牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、


最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。


このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)




-以上「生きて祖国へ5 死の三十八度線」引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会-人間の皮を被った悪魔・北朝鮮人民-


満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にっつに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)
北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。を履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。




若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケの」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。負けた者の宿命に、悲しいめを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれてって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。
―南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら―




乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日一人1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。


ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。         


そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやって来た。 


遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、


「これでも食え!」と言いざま、


足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。


久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、


この光景に、窓の表情はたちまち青ざめたりに変わった。




今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないために知恵を絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。




その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。




「今度は一切の所持金を提出しなければならない。


もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが


後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように。」




有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。


その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。


「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。


「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」


十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。


この雨中の別れが、長い長い別れとなった。




この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、


遠くシベリア送りとなったのである。




―以上「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑より


「三十八度線」木下宗一[著]

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