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tacodayoのブログ

ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。

今の北朝鮮の飢饉や韓国の失業率の高さは天罰

ゴキブリブログ
http://blog.livedoor.jp/std2g/archives/cat_593203.html
への反論です

-"生き地獄"を生きた李朝朝鮮の農民たち-
フランス人宣教師のシャルル・ダレは、当時の朝鮮王国のな鎖国政策について、こう書いている。
「1871年から1872年にかけて、驚くべき飢饉が朝鮮半島をい、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人々の中には、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、酷たらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、『どこの道にも死体が転がっている』と訴えた。
しかし、そんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。」 
- シャルル・ダレ『朝鮮事情』平凡社東洋文庫
丁若鏞著の『牧民心書』でも、李朝社会の下で、悲惨な朝鮮農民生活が書かれている。
(中略)
朝鮮農民の間には、古来から「春窮、麦嶺」という古諺があるほどだが、農民は収穫の5割以上が年貢として取り立てられてしまうし、収穫した米も翌年3月の初めごろには全部、食いつくしてしまう。そこで、じゃがいもや麦のできる6月までの3ヵ月は、春窮といわれるのだ。
李朝以来、数百年にわたって朝鮮農民の背負う歴史的な(長い間治らない病気)と言える。それは人ロの9割を占める農民のうちの8割の小作人が、保存食糧を冬季に食いつくし、麦の収穫期までの間、草の根、干し草、どん栗、とちの実などで食いつないでいくことである。
極端な場合には、松の木の表皮と木質との間にある柔らかい白い部分をぎって食用にする。あるいは五月になると麦の成熟するのを待ちきれず、穂がまだ青く乳状であるものを、穂先だけ摘み取って粥にして食べたり、せっぱつまればまで種籾まで食べ尽くしたりしてしまう場合もある。
朝鮮の農書、農史を読むと中国の農民と酷似している。旱害、水害、風害、ひょう害、、病虫害が、間断なく年中行事のように各地方を襲い、農民は乞食、農奴同然である。そのうえに、両班と悪吏に食い物にされ、小作農は、大なり小なり、慢性的な食糧難と借金苦にあえいでいる。
だから「小作人は、地主のところで出来高の勘定を済まして帰るときには、箒と箕を持って家に帰るだけである」という惨めな諺があるぐらいだ。
もちろん、それは大多数の農民に限らず、朝鮮の鉱山労働者も同じである。『朝鮮旅行記』によれば、「労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山にて日本人へ金を売りさばく役人たちの懐に全てが入ってしまう」
「勤労の民は非常に貧しくて、飢えている」
「鉱山の近くに村があって、労働者らはそこで食事し、酒を買い、給料には手を付けないで、ほとんど裸同然でうろついている」
そもそも朝鮮半島は三南(忠清、慶尚、全羅)地方以外、飢饉の多いところで、最近の北朝鮮のような食糧危機は、決して特異な現象ではない。たとえば、丙子胡乱後、毎年各地がで飢饉が続き、崇徳3年、咸鏡道が飢饉で、死者3300余、黄海道に(イナゴの害)、三南地方まで凶作。以来、3年間連続で飢饉が続いた。朝鮮『仁祖実録』によれば、「6年5月、3年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、これは誠に未曾有の大異変なり」、8年3月にまた「飢饉に疫病、人民はほとんど死に絶えた」とまで述べている。1671年の大飢饉では、墓を暴いて死体の衣をはぎ取り、親は子供を道端に捨てたほどであった。
朝鮮総督府は、李朝社会の惨状――乞食同然の農民とに行き倒れの無宿者の多さに驚き、自作農の創出、小作制度の改善を重視している。朝鮮半島の開発、社会改革に献身した日本人が少なくなかったことは、韓国人、朝鮮人も知っておくべきではないだろうか。
-以上「歪められた朝鮮総督府」 黄文雄 1998年 光文社 
農村の荒廃はひどく、農民は流民となってさまよい、そのうえ旱害・水害・等々もまた相次いでこの国を襲った。顕宗の時の大飢饉(1671)は飢えと疫病とによって死んだものは、前二者(秀吉軍・満州軍)との戦争による死亡者よりも多く、は墓を暴いて死体の衣をはぎとり、親は子を捨てて道端に行き倒れた。また、この飢民は変じて火賊といわれる群盗となるものもあるという状態であった。
こういう災害は李朝の復興期であった英祖の時代にもおこり、その25年間に疫病による死者5~60万を数えたといわれ、1812年には飢民の数は平安道90万、黄海道52万、江原道12万、慶尚道92万、忠清道18万、全羅道69万にのぼった。
-以上「朝鮮」 金達寿 1958年 岩波新書 
地方を治める官吏は、みな中央で任命されたうえで派遣された。中央からやってきた役人たちは、地元に対して同情心を持っていなかった。着任すると、の政治を行こない、自分の任期中に、出来る限り税を取り立てるかたわら、自分のを肥やそうとした。平均的な任期が短いものだったので、(暴政)に一層拍車がかけられた。そこで、日本のように地方ごとに産業が創出されて、発展することがなかった。韓国の農民たちは働く意欲を失った。
李朝末期の韓国を訪れたカナダ人ジャーナリストのマッケンジーは、
「私は、十分に耕せそうな土地をほったらかしにしていながらも、飢えに苦しむ農民のさまが理解できなかった。『どうしてそれらの土地を耕さないのか』ときいたところ、『耕せば耕すほど、税を取られるだけのことだ』という返事があった(「朝鮮の悲劇」F.A .マッケンジー)」
と書いている。
-以上「醜い韓国人」 朴泰赫 1993年 光文社 
朝鮮半島の歴史で飢饉による餓死者が出なかったのは、今に至るまで日本統治時代だけなのです。 李氏朝鮮は、現在の北朝鮮のように大量の餓死者がでる国だったのです。
『愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐は私のすることである。私自身が報復する」と書いてあるからである。 
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、乾くなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。』
(新約聖書ローマ人への手紙12:19~20)
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