ヨハネの黙示録に預言された時代に生きる現代人に必要な情報を発信していきたいと思います。
和夫さん一家の悲劇
2002年に韓国で出版
邦題「親日派のための弁明」
金完燮(キム・ワンソプ)、草思社
から「キム・ソンス君の証言」。
「その日から、マンセー(万歳)とともに大極旗が翻り、ついに朝鮮人の世がやってきた。神は自分が受けるべき朝鮮人の愛を横取りしたと、和夫君に嫉妬したのだろうか。和夫が実の子のように育て、東京帝国大学にまで留学させたAを中心に、和夫の家で教育を受け成人するまで育ててもらった青年たちが、鎌とツルハシ、シャベルをもって、和夫のもとに押しかけた。
当時、現場にいたキム・ソンス君は、このときのことを次のように証言している。」
●日韓併合時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明らかに立派な人々も多かった。
普段から人情に厚かった和夫は、小作料を収穫全体の10分の1しかとらず、村人達を家族のように考え、朝鮮総督府の法令で規定された小作料の中から最低限しかとらなかった。
貧しい朝鮮の小作人が食べ物が無いと哀訴すると、喜んで食べ物を分け与え、
村で誰かが亡くなると、家族全員が駆けつけて食事の用意はもちろん、自ら慟哭までして悲しみを分け合った。
和夫は近くに行き場のない孤児がいると、連れ帰って面倒を見ていたがその数は一人、二人と増え、四、五年たつといつのまにか私設孤児院規模にまで増えてしまった。
けれども、和夫夫婦はこれら孤児たちを家族のように愛し、自ら喜んで彼らの父、母を称した。
和夫の家族は、ふだん、このように朝鮮人を愛し、日本軍国主義の簒奪に憤慨するような人々だった。
しかし彼らは、日本の天皇が降伏宣言をした1945年8月15日、自分たちが育てた朝鮮人孤児たちにより、凄惨に殺害された。
その日、和夫さんが実の子のように育て、東京帝国大学まで留学させていた朝鮮人Aを中心に、和夫さんの家で教育を受け、成人するまで育ててもらった朝鮮人青年達が、カマとツルハシ、シャベルをもって、和夫さんのもとに押しかけた。
当時、現場にいたキム・ソンス君は、この時の状況をこう語っている。
和夫(優しい目で)「何故こんなことを、お前たち。」
朝鮮人A「チョッパリ!日本へ失せろ!失せろってんだ!!」
和夫:(わざと怒り声で)
「私が何かお前たちに間違った事をしたかい?
お前たちは、みな私の子供達だし、私はこの家の家長でありお前たちの父親だ。
お前たちの祖国が独立する事は、私も日頃から強く望んできた事だ。
踊りたくなるような嬉しい日に、なんだって凶器を持って私のところにつめかけてきたんだ?
私はお前たちをこんな風に教育した覚えはない。
(涙を流して)本当に悲しいよ、朝鮮の子供達。
私は愛情を注いで育ててきたが、結局、日本人と朝鮮人は交じり合う事は出来無いということなのかい?
お前たちが望むんなら、帰ってやろう」
朝鮮人A 意味深長な目配せをBに送る。
(財産を全部処分して帰ったら、俺達はどうやって食ってくんだ?)
朝鮮人B「死ね!チョッパリ!!(日本人への蔑称)この糞野郎!!!」
次々にツルハシが和夫さんの後頭部に振り下ろされ、それと同時にたくさんのシャベルとカマが体をズタズタに引き裂き始めた。
和夫さんの妻は耐えられずに飛び出してきた。
それまでじっとしていた朝鮮人Cは、和夫さんの妻を見ると、彼女の髪をつかんで庭の片隅まで引きずっていった。
そして、なんとその和夫の孤児達13人は、一週間前まで「お母さん」と呼んでいた“彼女を強姦し始めた。
彼女はひどい集団強姦の途中で虐殺された。
朝鮮人Dは、普段、お母さんと呼んでいた彼女の“全身をめった刺し”にし、それでも足りずに“内臓をかき出して”撒き散らした。
降伏後、日本人を殺しまくるゴキブリハエモドキ
和夫さんには「ひみこ」という娘が一人いた。
普段から模範的で良い子だった「ひみこ」は、学校が終わって家に戻り、両親に起きた“惨状を”見ると、気が触れてしまった。
当時、「ひみこ」の慟哭が何日も続き、近所の住民は眠れなかったという。
その後、孤児となった「ひみこ」は、食べ物乞いに村を回ったが、誰一人見向きもせず、知らないふりをした。
結局、「ひみこ」は9日後、村の橋の下でやせ衰えた死体となって発見された。
「ひみこ」は小学六年生だった。
和夫の財産は、和夫が精魂込めて大切に育てた朝鮮人孤児達(この恩知らずの鬼畜ども)の手に丸ごと渡り、この事件は、『村人達の沈黙の中で徐々に忘れ去られていった。「和夫一家殺害事件」キム・ソンス君の証言より
以下は
https://ameblo.jp/murahifu251gmailcom/entry-12721239203.html?utm_source=gamp&utm_medium=ameba&utm_content=general__murahifu251gmailcom&utm_campaign=gamp_recentImageEntry
より。
この事件は決して特異な例ではない。
戦後日本人の朝鮮半島からの引き揚げは、非常に困難なものだった。
今まで懇意に接していた朝鮮人達が、突然掌を返したように家屋に押し入り強奪・強姦・虐殺をするのですから、日本人としては堪ったものではありません。
夜逃げ同然に僅かな荷物をまとめて逃げ出すのですが、引き揚げの道中もソ連兵や朝鮮人に見つからないよう命がけの帰路となります。
実際に見つかれば、金品は取り上げられ婦女子は何人ものソ連兵や朝鮮人から陵辱を受け、場合によっては命まで奪われるのですから、この世の地獄だったと言えるでしょう。
「1945年夏。朝鮮半島北部の羅南から、母と姉の3人で釜山への苛酷な逃避行が続く。病人が行き倒れ、日本人女性が朝鮮人に暴行目的で連れ去られるのをあちこちで目撃した。」
これは米国の副教材として学校で使用されていた、戦後の朝鮮半島から引き揚げる日本人の体験談「竹林はるか遠くー日本人少女ヨーコの戦争体験記」の一文です。
著者のヨーコ・カワシマ・ワトキンズさんは、戦後の困難な状況を生き抜いたヨーコさんと家族の逞しい生き様を通して戦争の悲惨さを訴えるもので、朝鮮人の残虐性を訴えるのが目的ではありません。
そのため年少の読者に配慮して朝鮮人の暴力の激しさは、実際よりかなり押さえた描写にしているそうです。
それにもかかわらず在米韓国人団体は、この本を教材から外し廃刊するよう運動をしました。
自分たちに都合の悪いことは、例えそれが事実であっても封殺し、自らが被害者として作り上げた従軍慰安婦問題を全世界に宣伝し、日本を貶めようとします。
こういった後付けの歴史を広めようとする朝鮮人は論外としても、なぜ『和夫一家殺害事件』や『竹林はるか遠く』等の多くの史実を日本の教育現場で教えないのかが不思議でなりません。
現在の日本のような行き過ぎた自虐史観は、ゆくゆく国を滅ぼす事へと繋がるのですから。
今こそ徹底して教育の現場から立て直していく必要があります。
-賄賂を使った逃避行-
私も居所を中心とした50人ほどのグループに参加した。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
(中略)
夕闇の迫る時刻に平壌郊外に集会することになった… 全員乗車し終わると、大きなシートで人間を覆って、トラックは始動をしはじめた。あのエンジンの音のしさと恐ろしさとは忘れることができない。途中、第1のソ連兵の関門を通った時、停車を命ぜられたのにトラックはそのまま猛スピードで逃れて発砲された。銃の発射音を聞いたが、別状無く進んだ。第2、第3の関門では、用意の賄賂の酒瓶を与えることで無事通過した… 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代はもちろん多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる… いよいよ38度線が稜線だという山にかかると、牛車から下ろした荷のうち、病人や老人の荷は、強制的に数人の朝鮮人たちの背中のチゲ(背負子)に載せることになる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。もうこの頃には、する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。ああ、ここは衛生施設の整ったアメリカ軍管轄の開城府のテント村であった。
この脱出コースは、関所があり、検査所があり、牛車やチゲによって金銭や持ち物を日本人から取上げてしまおうという、最初から最後まで彼らの計画の略奪コースであったのである。
このようにして、病死を除いた引揚者は、命だけをようやく日本へ運んだということになったのだった。 (常松泰秀)
-以上「生きて祖国へ5 死の三十八度線」引揚体験集編集委員会編 昭和56年 図書刊行会-人間の皮を被った悪魔・北朝鮮人民-
満州から鴨緑江を越えてぞくぞくと南下する避難民を朝鮮軍は平壌でストップさせた。やがて、38度線は朝鮮を南北にっつに分断した。北鮮にあった日本人は、この分断線によって悲運のどん底に突き落とされた。
(中略)
北鮮を追われた避難民の群れは、平壌へ、平壌へと流れてきた。列をなした乞食の群れである。を履いている者はほとんどいない。女も子供も皆ハダシである。山を越え、熱砂をふんだ足の裏は、ザクロのように裂け、その傷にはウジがわいている人もいた… 平壌には元からの在住者が2万8千名もいる所へ、汽車で送られて来た疎開者が1万2千名もはいっていた。そこへ、北鮮からのこのハダシ部隊が毎日毎日流れてきた。
若松小学校の避難舎は、これらの人々を迎え入れて日とともに膨れ上がっていく。中には一椀のをふるまわれ優しい言葉で迎えられると、悪夢のような数日の怒りがこみ上げてくるのであろう、「畜生、ロスケの」「山賊朝鮮人め!」髪を振るわして、勝利者の暴力を訴える婦人もいる。負けた者の宿命に、悲しいめを残して、これらハダシ部隊の大部分は草履を恵まれてって行く。1日でも早く、1時間でも近く、祖国日本の姿に接したいのである。
―南へ、南へ、38度線突破の一念に燃えながら―
乏しい食糧の所へ、これらの南下部隊を迎え入れて、若松小学校の疎開本部は苦しい生活が続いた。1日一人1合の米が心細くなって、1日2食のカユになった。子供たちは腹をすかして母親を困らせた。
ある日――それは何かの祝いの日にあたっていたので、肉入りの味噌汁が大鍋で作られていた。
そこへ朝鮮の子供がいつものとおり4、5人からかいにやって来た。
遊びに来るというのではなく、子供ながらも自分たちの優越感を誇りに来るのである。そんな時に、このやろう! とでも言おうものなら、後の仕返しがそれこそ大変である。朝鮮人の顔役がズラリ顔をそろえてやって来て、打つ、蹴る、殴るの「見せしめ」が始まる。この日も悪い奴がやって来た! と思ったが、炊事当番の人々が知らぬ顔をしていると、「負けたくせに生意気だ」と食って掛かって来た。あまりの雑言にきっと目をすえると、
「これでも食え!」と言いざま足もとの土砂をすくって、パッと味噌汁の鍋に叩き込んで逃げていった。 久しぶりのご馳走というので、窓、窓には笑顔が並んでいたが、この光景に、窓の表情はたちまち青ざめたりに変わった。
今日もまた「命令」と称して朝鮮人のトラックが乗りつけて来た。カーキー色のものは服といわず靴といわず、一物も余さずかっさらって行く。これらは軍需品だから没収するというのである。これから寒さに向かうというのにシャツ1枚でも無駄にはできない、その貴重品をトラックに山積みにして今日も引揚げていく。避難の人々は、最後の1枚を没収されないために知恵を絞り出した。明日もまた現れるであろう没収団のため、有り合わせの染料で他の色に染め変えてしまった。
その翌日――。朝鮮側の命令は例のとおりやってきた。一同は一夜で変わった黒や青色の服で列をつくったが、予想に反して今度は服装には目もくれず、意外な命令が言い渡された。
「今度は一切の所持金を提出しなければならない。もし、この命に違反し、一銭といえども所持していることが後で分った場合は銃殺される。では、本日ただちに提出するように。」
有無を言わせない強制処置である。今後何か月かかるか分らない長い苦難を前に、金こそは命の綱である。その命の綱を一銭残らず供出したら――今までに子供がおなかをすかせれば芋の一つも買ってやれたのに、無一文は死の宣告も同然である。しかし、銃殺で脅かされた一同は、泣く泣く最後の一銭までも提出してしまった。その夜――カユをすすった避難民一同は絶望の中に寝られぬ夜明けを迎えた。
その朝も、恐怖のマトである命令が来た。1日1日この命令で心臓を締め付けられてきた一同は、伝令の姿が現れると、もうそれだけで体が震え出した。
「命令――」冷厳な、その命令は疎開本部代表に針のような鋭さで伝達された。
「17歳以上、50歳までの男子は、ひとり残らず軽装で集合せよ」
十分の猶予が与えられて男子は校庭に集合した。この部隊はそのまま朝鮮保安署に連行された。残された婦人たちは「いつもの使役だとよいが… 」と冷たい雨の中を去っていく男子部隊をいつまでもいつまでも見送っていた。
この雨中の別れが、長い長い別れとなった。
この男子部隊はその夜、移駐を命じられ、遠くシベリア送りとなったのである。
―以上「大東亜戦史8 朝鮮編」 池田佑編 昭和46年 富士書苑より
「三十八度線」木下宗一[著]
まだまだ有るよ〜
戦時徴用訴訟と恩を仇で返す人食い人種半島人
一部重複有り
-土人の住む朝鮮半島 -
朝鮮人は、科学技術の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術は全く進歩していない。この立ち遅れの主な原因の一つに、人々が全ての手工業を各自の家でまかわなければならず、必需品を自分の手で作らなければならないという現実がある。農民たちは、自分の手で衣服・わらぐつ・・ざる・・・・ござ・それに必要な農具を作る。一言にして言えば、自給自足しているのである。彼らはもっとも単純で原始的な方法に満足しているので、決してめざましい熟練にまで達することはない。
特殊な道具を必要とし、その道具を使用するのに、期間の置かれた職業にのみ特別な職人がいる。しかしこの場合でも、一つの定まった仕事場だけで働く職人はである。普通彼らは雇い主の所まで道具をいでいき、そこでの仕事が終わればまた別の仕事を捜す。設備が必要なはずの者でさえ、一定の場所にまることがない。たとえばは、と粘土が自分の好みに合う所に居を定め、そこに小屋とを作り、近隣の人のためにや、時に大きな容器を作ったりするが、がなくなればまた別の所へ稼ぎ場所をかえる。鍛冶屋も同じ行動様式で採鉱が非常に困難になるとそこを離れて行く。したがって、大きな工場や本格的な採掘場・その名に値するほどの作業所など出来はしない。簡単に風に吹き飛ばされて、雨が漏れやすい継ぎ目の悪い板小屋。それにひびが入って壊れそうなや炉、これが全てである。したがってはほとんどない。金のあるような人はこのような産業へ投資しようとは考えもしない。
自分の家に店を開いている商人はごくわずかで、ほとんど全ての取引が路上で行われている。また商業の発達に大きな障害になっているものの一つに不完全な貨幣制度がある。
金貨や銀貨は存在せず、流通しているのは銅銭しかない。
そのため相当量の支払いをするためには、一群の担ぎ人夫が必要となる。
というのは、200フラン分の銭が1人分の荷物になるからである。
北部地域ではこの貨幣すら流通していないのである。
朝鮮の金利は法外である。
年3割の利子で貸し付ける人は、ただで与えるのも同然だと思っている。
商取引におけるもう一つの障害は、交通路のめな状態である。この国は山岳や峡谷が多いのに道路をつける技術はほとんど知られていないのである。
―以上シャルル・ダレ「朝鮮事情」金容権[訳] 1874年(復刻 1979年 平凡社東洋文庫)
通貨に関する問題は、当時朝鮮国内を旅行する者を例外なく悩ませ、旅程を大きく左右した。日本の円や銭はソウルと条約港でしか通用しない。
銀行や両替商は旅行先のどこにも一軒としてなく、しかも受け取ってもらえる貨幣は、当時公称3200枚で1ドルに相当する穴あき銭以外になかった。
この貸幣は数百枚単位で縄に通してあり、数えるのも運ぶのも厄介だったが、
無ければ無いでまたそれも厄介なのである。
私が旅行の前半にった舟はバラストが穴あき銭で、わたしは円の銀貨をつめたを持ち、自分の運の良さを当てにする事にした。そして今回の旅では、それもまんざら役に立たないわけでもなかったのである。
(中略)
銀を穴あき銭に両替しようとしたが、いつも金庫は空っぽだといわれ、誰も銀など信用してくれないか、そもそも銀というものを知らないかで、必需品がなにも買えなかった。い人口1850人の村マギョに着いたときはの日で、行商人がいそいそと銀35円を1円対3000枚のレートで穴あき銭に替えてくれた。穴あき銭を舟まで運ぶには6人の人手が必要で、舟はまた重たい荷を積むことになった。
(中略)
ある大きな村で私たちは週に一度立つに出くわした。地域の交易について調べてみるのは毎度のことで、調査の結果、通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部の大方には存在しない。つまり、ある場所と他の場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。このような状態は朝鮮南部、とくに道でもある程度見られる。平壌をのぞいては、わたしの旅した全域を通して「交易」は存在しない。
このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運ぺないほど貨幣の価値が低下していること、西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、して相手を信用しないことである。
(中略)
首都ソウルにおいてすら、最大の商業施設も商店というレベルには達していない。
朝鮮ではなにもかもが低く貧しくお粗末なレベルなのである。
-以上「朝鮮紀行」イザベラ・バード 1897年 時岡敬子[訳] 講談社学術文庫 1998
日韓併合(1910-1945年)前の朝鮮。
飢えと貧困にあえぐ奴隷階級の人々。
立派な衣服を着ているのは支配階級の両班(양반りょうはん)写真はコチラか
1888年〜1897年のSeoul
山々には緑が一本もない状態
写真はこちらから(順不同)
[1880年代のソウル南大門大通り(中心街)]
日韓併合時代中、1936年のソウル、南大門通り。
日本はこの様に朝鮮を近代化した。新興工業都市、興南(日韓併合時代、1942年)日本人も朝鮮人も協力しあって働いていた
朝鮮ホテル(1940年、ソウル)
左端の女性は舞踏家・崔承喜
朝鮮に造られた水力発電所、水豊ダム。
当時出力世界2位のダムで、朝鮮及び満州の電力をまかなった。日本は莫大なお金をつぎ込んで、朝鮮を近代国家に変えていった。
1.「植民地」インドと同じか?
日本の朝鮮統治は「植民地支配」などといわれるが、朝鮮は僅かも「植民地」として扱われていない。
「植民地」であれば、日本は朝鮮統治から財政的・経済的メリットがあったはずであるが、そのようなものは皆無であった。
(本を売ったので正確に再現出来ません)
世界史に例のない特異な他民族統治である。
日本による韓国併合の真実は、イギリスの「植民地」インド/アイルランド統治や、オランダの「植民地」インドネシア統治、あるいはフランスの「植民地」アルジェリア統治と比較すれば、簡単に鮮明になる。
イギリスの「植民地」アイルランド統治で、アイルランド人はその収奪に耐えかねて、自らの国から「集団脱走」である、国を捨てる「集団棄国」が実際に起きた。
(タコ注 建国初期のアメリカにアイルランド人が多かったのはそのため。)
それほど英国の収奪は過酷を極めた。
アイルランドの人口は、1841年の820万人が1911年には444万人と半分になった。1847年から1905年にかけて約500万人のアイルランド人が国外に移民した。
アイルランドの人口減少
1841年 - 1851年
しかし朝鮮は日本の統治によって年々豊かになった。
人口は、1910年の1313万人から1942年には2553万人へと激増した。32年間で倍になったのである。植民地アイルランドの逆である。
しかも、一人当たりの国内総支出も、
1910年の58円が1938年には119円と二倍になった。
英国のインド統治で、英国は本国からの財政支出は一切しなかった。一方、日本は後で述べるように、湯水のように財政援助を与え続けた。インドと朝鮮は、180度逆の状況にあった。
例えば駐インド英国軍の駐留経費は、軍人の給与や休暇手当てを含め、「植民地」支配されるインド人が負担した。この負担には、英国に帰還した後の恩給(年金)やインドのへの赴任旅費まで含まれていた。
ところが、日本は朝鮮に派遣された全ての軍部隊の費用は、
給与を含め全て日本持ちで、一円たりとも、朝鮮からの徴税はしなかった。
英国は、インドからの「本国費(ホーム・チャージ)」と言う名の一定額を「徴税」させていた。すなわち、日本の総督府に当たるインド政庁は、インド人から徴収した租税のかなりの部分を英国本国に送金したのである。この「本国費」が、在インド英国軍人の人件費、在インド英国官僚・下級官吏の給与、英本国のインド省の官吏の給与、…等となった。また、「ホーム・チャージ」の中には、「鉄道利子」が含まれていた。「鉄道利子」とは、インドの鉄道敷設に投資した英国投資家の投資額の利子3.5~5%をインド政庁が保障し、これをインド財政――主にインド人の租税――から天引きしてイギリスに送金したのである。この「本国費」はインド財政のおおむね25%ぐらいを占めていた。つまり、インド人は自分たちの租税のうち25%が英本国に「徴税」される構造になっていた。
その分かつて豊かだったインドは貧しくなり、財政は絶えず破綻状態だった。
【持参金付き統治代行-韓国併合の真実】
(ところが逆に)「持参金つきの統治代行」であるがために生じた、日本の朝鮮への財政負担は、1904年の“第1時日韓協約”による目賀田財務顧問の着任から始まる。それに続くのが伊藤博文を統監とする保護国時代であり、1906年に2月に統監府が設置された。つまり、1910年8月末の併合そして朝鮮総督府が設置されるまでの、目賀田財務顧問時代保護国時代に、日本は、日本国の税金から、朝鮮の歳入不足分を無利子・無期限にて朝鮮政府に「立て替え」て交付した。
その額は表1の如く、4年間で1428万円。朝鮮政府の税収不足分をそっくりそのまま日本が「立て替え」た。そればかりか、朝鮮政府をせずに日本政府は直接にも支給して、韓国の行政を代行した。が、その額は「立替金」の数倍にも登った。すなわち、司法と警察など日本政府が受託した分野では日本政府が直接に支出した。
表1 併合前の日本の財政負担
年度
日本の立替金(備考)
日本政府の直接支出
計
(タコ注 現在の額に換算 単位億円)
1907
177万円
約2500万円
約2700万円
(約8100~1兆3500億)
1908
526万円
約2600万円
約3100万円
(約9300~1兆5500億)
1909
465万円
約1600万円
約2100万円
(約6300~ 1兆500億)
1910
260万円
2242万円
約2500万円
(約7500~1兆2500億)
計
1428万円
約9000万円
約1億400万円
(約3兆1200~5兆2千億)
もう一度言うと、1910年は8月末までは「旧韓国」の朝鮮政府があり、その歳入に入れたのを「立替金」と呼ぶ。翌9月からの総督府の歳入に入れた日本人の税金を「補充金」と呼ぶ。
1910年9月から翌11年3月末までの補充金は289万円出、表では「日本政府の直接支出」に含めた。また、1910年8月29日に明治天皇からの直接金3千万円が与えられたが、これは、1910年度の日本も持ち出し総額2500万円に含まれていない(タコ注 これを合せると現在の額で概算1兆6500~2兆7500億円相当)。
また旧韓国が日本政府から借用していた「借金」2651万円は棒引きにした。
これでは韓国を近代国家として運営するに必要な年3千万円以上の予算を組むには、
日本から差額を全てもって来るしかなかった。
1907年度には合計約2700万円を日本政府は支出した。1908年度には更に増えて合計で約3100万円という巨大な支出を日本はいられた。
併合後の1911年度以降は、「補充金」と呼ばれる日本政府からの持ち出し(日本国民の税金)は同年度の1235万円と、それ以前の平均値年2500万円の半分となったのは、残りの半分を日本で発行した公債や日本からの借入金で補えるようにしたからであり、日本から約2000万円前後を調達した状況は変わらなかった(表2のB)。それは朝鮮人からの税・印紙収入(表2のA)の倍に及んでいた。
表2 併合直後の朝鮮の歳入の対日依存
年度
税・印紙(A)
公債・借入金
補充金
計(B)
A+B
対日依存度
1911
1330万円
1000万円
1235万円
2235万円
3565万円
62%
1912
1468万円
1490万円
1235万円
2725万円
4193万円
64%
1913
1562万円
1110万円
1000万円
2110万円
3672万円
57%
1914
1854万円
764万円
900万円
1664万円
3518万円
47%
つまり朝鮮は、表2にあるとおり、その財政の過半から3分の2を日本に支出・調達させた。
よく言えば日本に「おんぶに抱っこ」してもらって、
マルクス流に言えば“日本に対しての限りを尽くして”近代化の船出をした。
公債・借入金は全て日本(日本人)からの調達であり、朝鮮人は全くできなかった。そのような公債を買える朝鮮人はいなかった。資金を貸す力のある朝鮮資本の銀行は一行も無かった。
(A)は[A+B]の三分の一から二分の一しかなかった。つまり、朝鮮の歳入の対日依存度は、その三分の一から二分の一に及んでいた。
日本持ちの駐留日本軍の費用は全て無視するとして(タコ注 しかしイギリスは印度に年金までも負担させた、また日中戦争の直接の原因は朝鮮人にある。)、これら表1の「立替金」、表2の「補助金」や「公債」その他は、巨額に上る(敗戦時の1945年度は不確定)。
具体的には、立替金、日本政府の直接支出、補充金、公債未償還だけでも約21億円になる(表3)。
表3 朝鮮の対日「搾取」金額の最少額
項目
“搾取”金額
福田注 現在の額に換算(3万~5万倍)
立替金その他(表1)
1億 400万円
3兆1200億 ~ 5兆2000億円
補充金(1911~44)
5億3521万円
(16兆 563億~ 26兆7650億円)
公債未償還
14億3971万円
(43兆1913億~ 71兆9855億円)
合計
20億7897万円
(62兆3691億~103兆9400億円
日本で調達した公債の未償還は、発行した公債(1910~1944)21億6566万円から、償還分7億595万円を差し引いた額である。朝鮮は三分の一しか償還していない。
この未償還の約14億4千万円は朝鮮側の「?得」(本を売ったので再現出来ません)となった。
日本にとっては一方的な巨額損失である。
1907~44年の1円が仮に平均で現在の3万円に相当するとすれば、これだけでも63兆円になる。
日本は最小値で63兆円を韓国と北朝鮮から変換してもらわなければならない。
この63兆円が、日本が搾取された最小値だからである。
-以上「歴史を偽造する韓国 -韓国併合と搾取された日本」中川八洋[著]徳間書店 より
これに味を占めた朝鮮・韓国は
今でも日本の“植民地支配”
でっち上げるのです。