(続きです)
天石門別豊玉龍王宮跡(あまのいわとわけとよたまりゅうおうぐうあと)とされる
雨降神社(あまたらし)神社
927年に編纂された延喜式神名帳には、朝廷より幣帛を受ける全国の神社2861社(3132座)が記されています。それらの神社は式内社と呼ばれ、927年の時点では、確かにその場所に存在していた由緒ある神社です。
紆余曲折を経て城山に室町時代末期から江戸時代中期ごろ春日神社(徳島市眉山町)に「豊玉比賣(トヨタマビメ)神社」の名で再建されています。
(城山貝塚)
紀元前1500年~紀元前500年ごろは眉山の東に海岸線があり、城山は内陸の山ではなく海辺に浮かぶ小さな島々の一つであったとされます。
(先の本からの引用続き)
さらに記紀神話の舞台には淡島及びオノコロ島がある。
以上が、記紀の。神代の巻”のなかから拾い出した、記紀神話の舞台の特徴である。
記紀神話の本当の舞台を探すためには、これだけ多くの特徴がぴったり符合した場所でなければならない。
これは難問であるとしか言えないであろう。
ところが、阿波の場合は、この舞台にピッタリと待合するのである。
しかも、すべてにわたって歴史的痕跡が残っているのだ(次ページの図参照 タコ注 前ページ 1.の先の図2枚)。
このように符合する舞台は、他所では絶対に考えられない。
だから私は「記紀神話の本当の舞台は阿波である」と、自信をもって断定するのである。
この詳細については、拙書『邪馬台国は間違いなく四国にあった』または『四国は死国にされていた』にあたっていただけると幸いだが、そこで私が写真の公理法を駆使して、「記紀神話の本当の舞台は阿波であった」ことを完璧に証明したことを受けて、本書では、そこに何が封印されてきたのか、どうそれを解いていくのかを語っていきたいと思う。
まず、前著二冊の刊行後に判明したことを次に紹介することにしよう。
◇海幸彦・山幸彦伝説″が物語る阿波国私は、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武)が四国から大和へ東征したのは、三世紀の末ごろと考えている。だから、記紀神話に出てくる海幸彦・山幸彦の物語も、三世紀のころの史実であると思っている。
この“海幸彦と山幸彦”の神話については、驚くべきことがわかった。それは、なんと阿波には“海幸彦・山幸彦”の物語が伝説として、大正時代まで伝えられていたのである。 大正六年六月十日に日本傅説叢書刊行会から発行された『日本傅説(でんせつ)叢書(そうしょ)阿波の巻』(藤滓衛彦編著)という本がある。この本には「阿波國の伝説には、このような古い古い伝説がある」として、。海幸彦・山幸彦”の物語が記されていたのである。
その一部分を、読みやすく現代文に直して紹介すると、左のとおりである。
「序・阿波國最初の傅説について」
(前略)
(阿波国には)神武天皇の祖父であるヒコホホデミノミコトの、その后であるトヨタマヒメ
を祀る古い神社があるが、海神伝説の遺跡としては最も重要な遺跡であろう。
ヒコホホデミノミコト(父はニニギノミコト、母はアタカアシツヒメ)は、ある日、兄ホデリノミコトの釣竿と、自分の弓矢とを、お互いに貸しあって猟にでかけられた。山の猟には上手であったヒコホホデミノミコ下も、魚釣は一匹も釣ることが出来ず、そのうえ、釣り針を無くしてしまった。ヒコホホデミノミコトは、自分の剣を壊して箕(み:穀類のからをよりわける農具)にいっぱいの釣り針を作り、兄から自分の弓矢を受取った時、事情を説明して釣り針を無くしたことを詫び、自分か作った釣り針によって償うことをお願いしたけれども、兄は拒否し、どうしても、もとの釣り針を返せと言って責めたので、ヒコホホデミノミコトは大変困って、海辺にたたずんでいた。そこを通りかかったのがシオツチノオジであった。ヒコホホデミノミコトはシオツチノオジに、その心配の理由を尋ねられるままに話すと、シオツチノオジは、無くした釣り針を取旦戻す方法があると言って、その方法を説明し、小船を作ってヒコホホデミノミコトを乗せ、これを潮に浮かべたところが、しばらくすると小島に着いた。ヒコホホデミノミコトは舟から下りて、池のある所へ行ったところが、偶然、水を汲みに来た小娘に会った。
それから、一緒に海神の宮に行かれ、ヒコホホデミノミコトは、款待されたのである。
(中略)
阿波國の伝説には、このような古い古い伝説がある。
伝説の阿波國が、このような神話的伝説から始まって、いかなる伝説を秘めているかはこの「阿波國の巻」をひもとくに従って、明らかになるわけである。
すなわち、ここに最も古い伝説を記して、序に代える。
日本傅説叢書編著者 藤 滓 衛 彦 識
この『日本傅説叢書阿波の巻』に記された海幸彦・山幸彦の物語からも、阿波が記紀神話の本当の舞台である信憑性をますます感じさせるのである。
◇イザナギーイザナミ伝説にまつわる「塩盈珠(しおみつたま)・塩乾珠(しおひるたま)」阿波には海幸彦・山幸彦の伝説が残っていただけではない。この地には山幸彦が海神からもらったという塩盈珠・塩乾珠らしき珠があるのだ。その珠は、徳島県は穴吹町尾山の柳川家に伝わっていた。
柳川家の屋敷は昔から「古屋敷」と呼ばれ、イザナギノミコトとイザナミノミコトが住んでいた屋敷である、と伝えられている。
謎の古文書『ホツマツタヱ』(日本独特の古代文字で書かれた書物で、『古事記』『日本書紀』よりも古いと言われている)の研究に没頭された、松本善之助氏の著書『秘められた日本古代史 ホツマツタヱ』(毎日新聞社刊)のなかに、
「イサナキ、イサナミ両大神は、富士山での嗣子を授かる千日にも及ぶ行を終えてサカオリノ宮に帰りました。そこでお帰りを待ちかねていたのがオホヤマツミでした」
と、書いておられるが、この柳川家の屋敷は高大原から坂を下ったところに位置し、まさしく「サカオリノ宮」そのものなのである。また、元祖富士山も近くにあるのだ(これは後述しよう)。
山幸彦を海神の宮へ送ったシオツチノオジは、イザナギとイザナミの子である。彼はイザナギーイザナミの亡き後、この古屋敷に住んでいたのではないかと思われる。その活か示すように最近になって、この柳川家の屋敷に伝わる塩盈珠・塩乾珠というべき不思議な二つの珠がわれわれの前にその姿を現したのだ。
この真っ黒い大小二つの珠(しつけ、この珠を、専門家に鑑定してもらったところ、溶鉱炉から出る鉱滓のような物ということがわかった)は、大きいほうが長径約12センチ、垂さ1450グラムあり、少し楕円形をしていて、風船を膨らませたような形状である。また、小さいほうは長径約8センチ、重さ450gで、風船が萎んで皺ができたような印象を与える。
この二つの珠は、代々柳川家の神棚に置いてあったものだが、それは神様(つまり礼拝の対象)として祀ってきたものではない。ただ、その由来はともかく昔から先祖が、尊い珠として神棚へ置いてきたという。
そしてこの二つの珠こそ、記紀に出てくる塩盈珠・塩乾珠である可能性は高い。おそらくこれは、山幸彦が海神からもらった宝として、柳川家が代々大切に預かってきたものではないのだろうか。
要は、阿波が記紀神話の本当の舞台だからこそ、このような珠まで発見された、ということなのである。
以上引用終わり。
偽物の塩盈珠・塩乾珠の写真。ネットに散見されますね


以下は上写真と同じ
倭(やまと)についてその (2)倭大国玉神社からの引用です。
「四国のまほろば美馬市」をキャッチフレーズに掲げる美馬市は,名実ともに「まほろば」の地である。「まほろば」は,古事記に倭建命が歌う国ほめの歌。
倭は 国のまほろば たたなづく 青垣
山こもれる 倭しうるはし
倭(やまと)は,山に囲まれた所であると歌っているのである。倭(やまと)というと大和(奈良県)を思い浮かべるだろうが,古事記は,倭と大倭を書きわけて大倭秋津島と書かれている。奈良は,阿波の倭が発展した地の大倭である。
それを示すのが,延喜式内社に記録される美馬郡にある
倭大国玉神社である。一方,大和坐大国魂神社が奈良県にある。 大國玉神社は,日本各地に8社あるが,倭の付く神社は,阿波の美馬だけで,淡路に大和大國玉神社,奈良に大和坐大国魂神社があるだけである。
これまで,なぜ,美馬市に式内社の倭大国玉神社があるか説明がつかなかったが,今回ハッキリした。
高天原(木屋平)から降りてきたところを倭と呼んだのである。
大国主命が,「出雲より倭に上(のぼ)りまさむ」と書かれているのは,上郡のソラと呼ばれる美馬市だったのである。美馬市には,
大国魂古墳・郡里廃寺跡・
荒川遺跡・
三島古墳群、・
段の塚穴古墳群(
太鼓塚古墳・
棚塚古墳)・
拝原東遺跡など数多くの遺跡がある。現在は、阿波を北と南に文化圏を分けて考えるが,吉野川の中流,岩津から西に別の文化圏があったと考えられる。
以上引用終わり。
こちらもどうぞ。
邪馬台国は四国に有った?2 コチラも
剣山TV

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以下は手抜き版
頂上ヒュッテ
宿泊客朝食
一般客昼食メニューの一部